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高坂はる香のワルシャワ現地レポート 第18回
取材・文:高坂はる香
※結果発表の翌日に行ったインタビューです
──前回、2021年のコンクールのあと、ヤブウォンスキさんが語ってくださった「ショパンコンクールはどこに向かっているのか」というお話にとても大きな反響がありました。ショパンが求める音楽について改めて考えるきっかけになったという方が多かったですが、入賞者が否定されていると受け取った方もいるなど、本当にさまざまなリアクションがありました。
そうでしたか…。ご存知かもしれませんが、実は今回のコンクール中にもいろいろありました。ポーランドのラジオで、ショパンの演奏に求められるべきものについて私の考えを語ったところ、それに対する批判のコメントがすごい数書き込まれてしまって…次第にヘイトといえるような匿名の酷いコメントも増えていきました。こんな経験は初めてのことだったので、見ていたら手が震え、心臓が熱を持つようでした。
ショパンが求める音楽について、私は同じような話をこれまでに何度もしていますし、具体的に誰かのことを言ったわけでもないのに、感情的に攻撃してくる人がこれだけ現れて、言葉を失いました。

──そんな中で、インタビューに答えてくださりありがとうございます。では改めまして…今回の結果についてはどう感じていますか?
もはや審査員という“悪の組織”の一員のような感じなので、結果には賛同していますよ(笑)。そして私自身は自分の信念に基づいて行動してきただけですから、まったく罪悪感はありません。
多くの方は審査員も人間であることを忘れているかもしれませんが、私たちもまた、美しい音楽を聴かせてほしいと願いながらじっと1日を客席で過ごしている一人の人間です。次に現れる人が思いもよらない方法で自分を驚かせてくれるかもしれない、夢のような時間を与えてくれるかもしれないと期待しながら、集中して聴こうとし、また同時に自分の判断を省みながら過ごしていました。
すばらしい演奏に出会えば、ペンを置いてじっくりと耳を傾けました。そういう演奏は、聴き手の心を動かし、落ち着かせ、時間を止めてしまいます。
──このコンクールは優れたピアニストでなく偉大なショパニストを探しているという認識は審査員の先生の間にあったのだろうと思います。ヤブウォンスキさんのご意見として、改めて、優れたショパン奏者とはどういうピアニストなのでしょうか。
もしこのインタビューが10時間あれば、優れたショパニストとはどういう音楽家だと思うかを詳しく説明できますが、今日は数分でまとめてみたいと思います(笑)。
優れたショパン奏者であるには、第一にしっかりとした教育を受けた音楽家であることが大切です。
私たちは何世紀にもわたる音楽創造の伝統を受け継ぎ、これによって確立された音楽という言語の意味することを理解しています。人類はほぼ完璧な楽譜という記譜のシステムを築き上げました。そこには重要な意味があります。
作曲家たちはこの言語を使っていますが、残念ながら、最近の多くの演奏家はその言語を知らず、もはや別の言葉を使っているようにすら見えます。それは“YouTube語”や“感情語”なのかもしれません。
ショパンは天才で同時に教養もあり、彼が音楽を書くときは、こう演奏してほしいという意図を明確に楽譜に記しました。彼は突然火星からやってきて、まったく異なる音楽を地球にもたらしたわけではありません。小節線を引き、リズムも丁寧に書き込み、フレーズの説明をし、テンポを設定して、正確に演奏方法を教えてくれています。音楽のキャラクターについても伝えてくれています。それを正確に読んで演奏すればいいのです。
ただ、そもそも記譜されたことを誤って解釈している人が多いのも事実です。例えばスタッカートは、アジア圏の音楽辞典で「鋭い」「短い」と誤って説明されているのをよく見かけます。問題はここからすでに始まっています。結果的に多くの人が、なんとなく短めに弾く、鋭く弾くという決断をしています。これはプロフェッショナルな演奏ではありません。
イタリアをはじめヨーロッパの音楽辞典では、スタッカートとは音符の長さの半分だけ演奏することを意味するとあります。それを正確に守るか、なんとなく弾くことですませるかで、音楽の表情に大きな影響を与えます。
楽譜に書かれているのとは異なる長さや強弱で弾くと、いわば言い回しや発音が間違った表現になります。それはもはや、Mr.ショパンの存在を忘れかけているようなものです。もしくは「Mr. ショパン、あなたが亡くなってよかった、これであなたの音楽や全ての音符を自由に使って、まったく新しいものを作ることができます!」と言っているようなものです。

私たち教育者は、ショパン演奏の個性、魅力や音質について語る以前に、基本に立ち返って教え直す必要があります。基本すらできていない人が多すぎるからです。
レッスン室でもこういう光景を目にします。学生がただ音符をなぞって弾いている。私が気づいて「ここにはピアニッシモとあるのにどうしてフォルテで弾くの?」と尋ねると、彼らは「ドラマティックな効果を出すためにフォルテで弾いてみたのですが、あぁ本当だ、ピアニッシモがありましたね、見落としていました!」というんです。これが歪みを生み、その表現のために手を鍵盤から飛び上がらせ、音楽で偽りを演じる瞬間をもたらすわけです。
そのようなわけで、まず正しい音楽教育を受けてはじめて、ショパンについて語る基礎ができると思っています。
最近の音楽教育で何が起きているのか分かりません。審査員の中にはそれを気にしない人もいるのかもしれません。…私は同僚を批判したいわけではありませんが、個性や才能があるからといって、そうした基本的な部分が見逃されることが多すぎるように感じます。
もちろん、私たちは才能や個性のある人を大切にしたいし、失いたくありません。音楽に生きる人を応援したいと思っています。ただ高度に訓練された機械ではなく、生きた人間を。なぜなら音楽の才能は訓練では身につけられないものだから。お金をかけ、良い学校で良い教師に恵まれても、それを生まれ持っていなければ、決して目標には到達できないのだから。
…その想いがあるために、つい基礎を身につけていない人を許したくなる誘惑にかられるのです。そしてそんな“音楽のために生まれた人”を救うためなら、どんな罪でも許す覚悟を持ってしまうのです!
あるピアニストが音楽的なコミュニケーション能力に大変優れ、クリエイティヴだったとき、演奏の根本にある基礎教育の欠如についてついては誰もが沈黙します。それは不都合な事実だからです。この人は大学で一体何を勉強してきたのか、1年生に戻って再教育したほうがいいのではないか、という話になってしまうからです。
でも同時に、現代では“才能”という言葉さえ受け入れられません。なぜなら現代社会では、誰もが“すばらしい存在”だからです。批判されたくないし、誰もが勝者です。かつてショパンコンクールの点数は、1〜6までは「不合格」でしたが、今は、最低点は「良い」からスタートして、「もっと良い」「すごく良い」…「すごく最高」で25点満点ですよ。
みんな素晴らしく、みんなが称えられるべきだという考えは、多様性が尊重される社会では妥当な考えなのかもしれません。ただ、これは、現実を受け入れつつも何かを言おうとし続けた結果とも受け取れるでしょう。状況は非常に深刻だけれど、それでも笑顔を絶やさないようにしている、というような。
でも私たちは、今、テーブルに話題を提示して、何が起きているのか、どの方向に進んでいるのかを話し合わなければなりません。

──では、プロフェッショナルな演奏家であり、優れたショパン奏者であるために必要なこととは、何なのでしょうか。
私たちの世代のピアニストの多くは、音楽の基礎、ピアニストとしての基礎を身につけるために多くの時間を費やしてきました。先生たちは、日々の指導で一生懸命それを教えてくれていました。それは好きか嫌いかによらず、専門的に学ぶならばやらなくてはならないことです。科学と同じで、音楽にも学ぶべき基礎があり、一定のルールというものが存在するのです。
しっかりとした教育を受けたプロフェッショナルのクラシック演奏家は、楽譜に記された多くのことを無視してはいけません。それを無視するのは、アマチュアで音楽を楽しむための方法の一つです。
こうして音楽の基本がすべて揃ったところで、ようやくショパンの音楽における具体的な要素について話し始めることができます。
例えば、ショパンのピアノ演奏における独特な音のバランスについて話しましょう。彼は厚みのあるバスの音が好きではありませんでした。子どもの頃、低音部の3度が嫌いで、10度で弾きたくて必死に手指を伸ばして練習していたといいます。10度なら、あまり厚みのある音に聞こえないからです。だからこそ後に作曲する際も、3度ではなく1オクターヴ上の音との和音による、より鮮明で透明感のある響きを用いました。鮮やかさや清涼感、透明感を求めて音を選んでいたのです。
だからこそ私は、ショパンを弾いているというのに、ブラームスかと思うような低音が重く、やたらパワフルな演奏を、本当に受け入れられません。ピアノという楽器は不均衡に出てきているもので、特にコンサートグランドピアノの低音の弦は太く、約2メートルもあるのに対し、高音域の弦は細く、数センチしかありません。高音域の音は、厚みのある低音に完全に覆われがちです。同じ強さで同じように弦を押さえれば、最低音は最も強くなり、持続も長くなります。一方、右手の小指で弾く音はその逆です。
ショパンの作品ではそれがより顕著で、左手は主題がある場合を除いてたいてい純粋な伴奏です。だからこそ演奏するときには、全体のバランスは高音側に寄せる必要があります。和音においては、ソプラノで最も深く音を鳴らし、そこから下の音は順に段々と弱くなるように弾くことでバランスがとれます。これによって、ショパンの歌が表現できるのです。

──では、優れたショパン奏者についての認識の違いに話を戻すと、審査員によってその見解が違うのは、考え方によるのか、流派のようなものによるのか…どう理解したらよいでしょう。
…これは非常にリスクの高い話題ではありますが、少し触れてみたいと思います。
審査員がすばらしい人たちだったと仮定しましょう。彼らは優れた音楽家であり、ここまで多くの功績を残してきた人たちで、有名なピアニストであり音楽家です。
一方のコンテスタントたちについては、ずば抜けて優れたピアニストなら、審査員たちの認識に何も齟齬は生じません。逆に壊滅的に酷いケースについても問題はないでしょう。
問題は、平均的なピアニストたちについてです。一人一人の審査員が、どの要素、またはどの要素の欠如に最も不快感を抱くかによって、判断が変わってしまうのです。
音が聴き苦しい場合、それをあまり気にしない審査員もいるかもしれませんが、私には非常に不快です。もしリズムが乱れていた場合、かなり怒る審査員もいますが、私はそれほど怒らないかもしれません…なぜならそれは、直せる可能性のある要素だからです。
私にとっては、音が大きすぎることも問題でした。ピアニストたちは、ピアノ製造メーカーが可能にした最大の音量を使い、信じられないほど強烈な打鍵をすることがあります。
私のApple Watchには聴覚に危険な環境を知らせてくれるアプリが入っているのですが、予備予選のとき、95dB、100dBを越えたというアラートが何度も届きました。これは、1日に一定時間以上触れていると聴覚に問題が起きる音量だそうです。若いピアニストは、小さな練習室でピアノの蓋を開けたまま、1日に6時間も8時間も練習することで、音が聴けなくなっているのかもしれません。実際、予備予選のとき、多くのコンテスタントが調律師に、もっと音量がほしいとリクエストしていたそうですからね。私はその話が気になってホールでピアノを触らせてもらいましたが、ただ優しく触れるだけでショパンが必要とするあらゆる音が得られることがわかり、「彼らは一体何を言っているんだ?」と心から疑問に思いました。
極端な音の強弱を表現手段として使うことがこれほど行き過ぎた状態になっているのは、信じられないことです。 彼らは音が大きければ大きいほど、よりドラマチックになると考えているのです。鍵盤を叩いて騒音を鳴らさなくても、ドラマは十分に描けるというのに!
──ファイナリストで評価した方はいたのでしょうか?
……はい、いましたよ。ただ、すべてのジャンルで常に高いレベルの完成された演奏をしている人はいませんでした。
全般的に優れた印象のコンテスタントも、例えばソナタは失敗していたり、マズルカは美しいけれどポロネーズは良くなかったり。そのなかでファイナルに至ったので、最後の判断はとても難しかったです。いくつかの演奏には深く感動し、ペンを置いて聴きいる時もあって、それは本当にかけがえのない瞬間でした。
私が何に対しても満足しない、永遠に不満を抱えた人間だとは思わないでください。私の活力の源となる美しい瞬間がいくつかあったからこそ、それはまだ完全には失われていないのだと実感でき、誤ったほうに向かうことを憂うなかで、本当に価値あるものに立ち返ることを願い続けているということなのです。
──では、エリック・ルーにはどんな印象をお持ちなのか、お聞きしてよいでしょうか。
はい…優勝者についてコメントするのはとてもリスクが高いことだとわかっているけど、あえて言いたいと思います。
全ラウンドで安定していたといは言えませんが、とても美しい瞬間はいくつかありました。例えば、ソナタ第2番の〈葬送行進曲〉は非常に美しかった。3次で演奏したポロネーズは、とても洗練されていたし、バラードも心に触れる瞬間がありました。ただ、プレゼンテーションとして弱いと感じる部分もいくつかみられ、安定した演奏とは言えませんでした。ピアノの技術についても、もう少し多くのツールがあったほうがいいと感じました。
これは世界で最も権威あるコンクールの一つですから、その優勝者に期待するものではなかったというのが私の正直な感想です。やはり期待するのは、ツィメルマン、アルゲリッチ、ポリーニのような偉大な実力を持つ人ですから。
でももちろん、私は審査員の決断に賛同して、彼の今後の幸運を心から願っています。彼が、美しいもの、優れていないものの間に完璧なバランスを見つけ、成長していく様子を見守りたいです。
そのほかのファイナリストについても具体的に感じたことはありますが、それは少し事態が落ち着いてから話すことにしましょう。

──ちなみに日本のコンテスタントで印象に残っている人はいますか?
あぁ、私は牛田智大がファイナルに残らなかったことには、本当に驚きましたよ。ファイナリストの一覧が出たとき、私は当然彼が通っていると信じて疑っていなかったので、そこに名前がないことにしばらく気づきませんでした。少し経ってから、「ちょっと待てよ、ウシダの名前はあったよな?」と見返したら、驚くことにそこに名前がなかった。「一体何が起きたんだ…私にはあの演奏がすばらしかったことは明白だったのに、他の人にはそうではなかったのか?」と。
でももちろん私には、結果を変えることも、他の審査員の考えを変えることもできません。何もできないのです。
──今回のショパンコンクールを振り返って感じていることをお聞かせください。
正直、今やこのコンクールは多くのコンテスタントにとって、純粋な音楽を届ける場ではなく、あらゆる手段で皆を感動させる闘いの場になっていると感じずにいられませんでした。
結果について私が感じているのは、だんだんとパズルの末に出てきたもののようになりつつあるな、ということです。
審査員17人はそれぞれ異なる音楽的背景や信念を持っています。最終結果は、その点数の平均にすぎません。そこで私が疑問に思うのは、「審査員はどんな基準で演奏のすばらしさを判断しているのか?」ということです。純粋に音楽的な観点だけなのか、それともそれ以外の何かの要素が関係しているのか…。

優勝者は注目の的となり、国際的にキャリアを押し上げられるでしょう。その闘いにはピアニスト本人だけでなく、教育者や学校、マネージャー、ピアノメーカー、ホールなど、音楽業界全体が関わりを持ちます。
私が懸念しているのは、それが歪みとなって審査員の認識に影響を与え、マーケットで売れやすいスタイルを好み、推奨する方向に傾くのではないかということです。でも残念ながら、そうした演奏が音楽的に正しいとは限りません。
…私は他の審査員が間違った判断を下したと言っているわけではありません。ただ、何かがおかしいと感じていたということです。
こういうことを言うと、世間はすぐに、審査員の一人がおかしなことを言っていると思うでしょう。考えてみてください、この17人の審査員を別のメンバーに変えれば、別の結果が出るはずです。でも、それこそが私の大きな懸念です。
私たちは長年音楽を学び、同じことを学んできたはずです。音楽の神はただひとつで、私たちはそのひとつの神を信じるべきです。しかし最近では、“異なる宗教や異なる神々”が存在しているように見えます。私が大切にしている価値観も、他の審査員にとってはそれほど重要ではない。そういう方は、私と全く別の人を評価するでしょう。
例えば、私は前述のような、音楽の基礎をしっかり身につけたプロフェッショナリズムを重視しています。それは私が受けた音楽教育と、その後の人生における長い自己研鑽の結果感じていることです。
一方で、音楽ビジネスの世界では、熱心なファンがいれば、それがすばらしさや高いプロ意識の証とみなされがちです。すると、基本的な音楽のルールを破り、ステージ上の振る舞いが演技のようになり、多くの聴衆から好まれることをしている人ばかりが評価されるようになるのです。そういう人のショパンが優れているとは限らないのに、審査員の中には、彼らの演奏がいいと感じてしまう人もいます。どのコンクールでも、観客を熱狂させる力を持っているかどうかに価値を見出している審査員がいるのです。
音楽界にも、視聴者や登録者を獲得できるかという問題で頭がいっぱいの人が増え、結果的にフェイクや作為的なものが多く存在しています。 とても残念なことです。音楽のルールに従えていないものが売れるよう歪められているとしたら、私たちはどこへ向かっていくのでしょうか。そして10年、20年、30年後にどこにたどり着くのでしょうか。
このコンクールは、まだショパンコンクールなのでしょうか。それとも、最も派手な演奏を競うピアノコンクールなのでしょうか。もうわからなくなっています。
Chopin Competition
https://www.chopincompetition.pl/en
【Information】
第19回ショパン国際ピアノ・コンクール2025 優勝者リサイタル
2025.12/15(月)19:00 東京オペラシティ コンサートホール
2025.12/16(火)19:00 東京芸術劇場 コンサートホール
第19回ショパン国際ピアノ・コンクール 2025 入賞者ガラ・コンサート
2026.1/27(火)、1/28(水)18:00 東京芸術劇場 コンサートホール
2026.1/31(土)13:30 愛知県芸術劇場 コンサートホール
出演
第19回ショパン国際ピアノ・コンクール入賞者(複数名)、アンドレイ・ボレイコ(指揮)、ワルシャワ国立フィルハーモニー管弦楽団
他公演
2026.1/22(木) 熊本県立劇場 コンサートホール(096-363-2233)
2026.1/23(金) 福岡シンフォニーホール(092-725-9112)
2026.1/24(土)大阪/ザ・シンフォニーホール(ABCチケットインフォメーション06-6453-6000)
2026.1/25(日) 京都コンサートホール(ABCチケットインフォメーション06-6453-6000)
2026.1/29(木) ミューザ川崎シンフォニーホール(神奈川芸術協会045-453-5080)


高坂はる香 Haruka Kosaka
大学院でインドのスラムの自立支援プロジェクトを研究。その後、2005年からピアノ専門誌の編集者として国内外でピアニストの取材を行なう。2011年よりフリーランスで活動。雑誌やCDブックレット、コンクール公式サイトやWeb媒体で記事を執筆。また、ポーランド、ロシア、アメリカなどで国際ピアノコンクールの現地取材を行い、ウェブサイトなどで現地レポートを配信している。
現在も定期的にインドを訪れ、西洋クラシック音楽とインドを結びつけたプロジェクトを計画中。
著書に「キンノヒマワリ ピアニスト中村紘子の記憶」(集英社刊)。
HP「ピアノの惑星ジャーナル」http://www.piano-planet.com/




