文:青澤隆明
家から出て、まず空を見上げる。晴れであろうと、雨であろうと、曇りであろうと、そこに空があるのは、いいことだ。それを見上げている自分が、きょうもつづいているということは。
朝早くに見上げる空は、まだなにごとか決めかねているようで、ときにはその日の天気も決定していない。毎日の単純なくり返しを、大きく包む変化として、天気は小さからぬ仕事をする。
日々というのは、脆く儚いものである。そうした確かならざる日々を、自分の手もとにそっと引き寄せるのが、人それぞれのルーティーン、生活のくり返しの所作だろう。そうして、自分の時間の流れをもって、また新しい一日へと入っていく。
なにが起こるかはあらかた決まっているようでいて、実際のところ、とても不確定なものだ。ふと思いがけなく、転がり込んでくる出来事を受け容れながら、私たちの時間はつづいていく。どうかつづいていってほしい。
仕事という営みは、どんな種類や分野の職業であっても、私たち個々の手の感触を帯びてくる。なにげないひとつひとつの積み重ねに留まる個人の私的な感触がありふれた、しかし詩的ななにかを宿すのだ。それを受けとれるかどうかは、おそらく私たちの内面の静けさにかかってくる。それは、なにかを耐えて激しくもある。耐えるべきは、空虚や虚無の感覚だ。
そうした生来の空隙を折り目正しく畳み込むように、日々のルーティーンが私たちの生活において有効なものとなる。虚しさを寂寞として放置するのではなく、自律したパターンの反復をもって自らに割りあてられた時間を充たしていくことで、私たちは運命というようなどうにもならない大きな決定づけから、ささやかな自立を手に入れる。そのための労働が日々の営みとしてなされる。いや、そうして日々を私たちの営みに変えるのである。
そのためには、仕事の動きのひとつひとつがていねいに、心を籠めてなされる必要がある。ということは、いまここにいない誰かを思うように、そっとなにかを誰かに届けるように行われてなくてはならないのだろう。
『PERFECT DAYS』の話だった。ヴィム・ヴェンダースの新作で、タイトルを目にしたとたん、たちまちルー・リードの震える声が聞こえてくる。それがいいサインなのか、わるいサインなのか。私にとっては、どうやら後者ではないか、という予感が無駄に働いて、映画館に足を運ぶまでに公開からずいぶんと日が経ってしまった。その間、私の日々はと言えば、なにひとつとして完璧なものではなかった。
役所広司が秀逸な演技を称賛されている、東京が舞台である、という情報のほかは特になにも知らないままで、その新作を観に行った。10代の頃『ベルリン 天使の詩』を観た劇場にぎりぎりで駆け込んで、ようやく私はその映画に触れた。
役所広司が演じる男は、東京都の公園を巡回する公衆便所の清掃人で、彼のみせるひとつひとつの仕事の動作、日常のしぐさにいちいち目を奪われているうちに、劇中の日々が巡っていく。あたかも本のページを捲るように、熟練の手つきでくり広げられていくのであった。しかし、自立したとみえる個人の時間は、社会に生きる人間の恒として、外から訪れる思いがけない出来事に遭遇しつづける。仕事や生活のさまざまな局面で、口数の少ないその人物のもとに、さまざまな他者の時間が流れ込んでくる。
主人公はそのいっさいを拒むには、思いやりと優しさに満ちた性格をもっている。彼の静けさは、自らの内に向かって凝縮しているものではなく、外の世界との、つまりより大きな時間との繋がりに向かって、受動的ではあってもゆるやかに開かれている。パッシヴななかに、ポジティヴがある。
彼の車や部屋のなかでは、長く聴き続ける名曲がさまざまにカセットテープで再生される。もちろん、私的にダビングしたものではなく、むかし懐かしいパッケージのものである。テープの再生は、日々の仕事場との往復や生活の場面のくり返しにも重なっている。選ばれるテープはそのときどきでトーンが違うが、いずれ聴き慣れたものであるという安心感は、ひそかな自信に繋がってもいるはずだ。心理的に調和しているときもあれば、少しのずれが広がりをもつこともある。
音楽を聴くとき、自ずと人の時間は交じり合う。自分でも、他者でも、そのどちらでもないような流れのなかを、聴き手は漂うように旅している。
(#21につづく)
【Profile】
青澤隆明 あおさわ・たかあきら
音楽評論家。1970年東京生まれ、鎌倉に育つ。東京外国語大学英米語学科卒。主な著書に『現代のピアニスト30—アリアと変奏』(ちくま新書)、ヴァレリー・アファナシエフとの『ピアニストは語る』(講談社現代新書)、『ピアニストを生きる—清水和音の思想』(音楽之友社)。