Aからの眺望 #21
日々の響き――おとぎの国のヴェンダース

文:青澤隆明

Photo:M.SUZUKI

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 ヴィム・ヴェンダースの『PERFECT DAYS』はシンプルなつくりの映画で、そこがよいと思った。ロードムーヴィーの舞台を日常に置き、公共の仕事に就く、本来は姿のみえづらい職業人を主体に綴っていく設定が、饒舌ではなく確実に効を奏していた。夢のシーンがざわつくところとか、けっこうありふれたシークエンスに対しても素直なところが、ヴェンダースの年輪というものかとも思った。そう感じるのも、私がただ歳をとった、というだけのことなのかもしれない。
 日常生活の冒険をたんたんと揺るがずに生きるように一見みえる主人公は、口にされない過去を内に抱えていると匂わされてはいるが、汚れているところはまるでなく、むしろ清貧というに近い。仕事で多様な建築物を巡る様子には、どこかSFみたいな感じもある。実際、ゴミは散らかし放題だが、糞尿の汚れは見当たらない。その意味で、まったくにおいがしないのである。多様なデザインの公衆便所の建物は、都市に漂着した一種の宇宙船のようにもみえる。
 ようするに、これはファンタジーなのだ。役所広司という俳優が、その寓意にうってつけの生活と人生を静かに担っている。そもそもリアリズムではないから、そうとわかれば、私は素直にそのなかに遊ぶだけのことだ。
 いまだ多くのヨーロッパ人にとって、日本はおとぎの国で、東京はその象徴なのだ。日本の広報イメージとして、おとぎの国のような顔色が大きく輸出されてきたこともあるだろう。その意味で、まさにヴェンダースはストーリーにふさわしい舞台を得たことになる。
 さきほどSFと形容したが、それはスクリーン上の光景であるだけでなく、ドメスティックな私にとっては、そもそもがファンタジーなのである。あからさまな異化は見間違えようがない。そう思って、その作業車にゆめゆめ便乗してみないことには、この映画を観る時間もいっこうに楽しくはならない。

Photo:M.SUZUKI

 本作は、会話のテンポや主人公の寡黙さからしても、小津安二郎の映画をまっすぐに思い出させ、あの懐かしいヴェンダース自身の『東京画』の記憶も再生させてくる。だが、なによりも、これはヴェンダースにとっての『PATERSON』に違いない、ということを本作の日々が進むうちに私は強く思っていた。両方ともPではじまるし。最後の重要なシークエンスとして、三浦友和の演じる人物が絶妙の存在感をもって出てくるところが、『パターソン』で永瀬正敏が演じるウィリアム・カーロス・ウィリアムズ巡礼の男の唐突な登場と実によく似ていて、それぞれの登場は映画の日々を結ぶ契機ともなっている。
 ジム・ジャームッシュならバスの運転手・・・にアダム・ドライヴァー・・・・・・を配して、詩を読み、詩を書くことで、日々を祝福する男を主人公にするところを、ヴィム・ヴェンダースはやはり仕事で車を運転し、東京都の公共・・の清掃人を役所・・広司に託すのである。夜になれば文庫本を読んで眠り、自身はなにも書かない。かつての兄弟弟子の感性は、個性の音楽に強く心を寄せながらも、そこが性格というか志向の大きな違いとなっている。
 寡黙で、それだけ激しい内面を抱えているとみえる男が、ほとんど毎夜のように読むのは、古書店で選ぶ安価な文庫本だ。それがたとえば幸田文の『木』であることは、カセットテープでロック・クラシックスがかかるのと相似して、素直にクリシェをなぞってみせる。『パターソン』でe.e.カミングスやW.C.ウィリアムズの詩人が愛されているのとも似ているが、その劇中で主人公が書く詩は、ロン・パジェットが手がけたものである。ピューリッツァー賞を受けた詩人だが、私たちの国などでは決して広く知られているとは言えないのではないか。
 もうひとつ近いようで遠い隔たりとして、ヴェンダースはたとえばルー・リードをルー・リードとしてスクリーンの画布に招き入れるが、ジャームッシュはわかりやすく言うならイギー・ポップをゾンビの一員として演出する。ヴェンダースが現実と虚構の混交を求めるとき、表現者のもつパブリック・イメージを十分に異化せず、そのまま映画の虚構に当て嵌めようとして、たいていはうまくいかない。本作はそうでもないが、それでも田中泯は田中泯そのままの佇まいで不思議の国を漂泊している。いささかあからさまにすぎるが、それもつまりは主人公の目にみえる幻ということなのかもしれなかった。

#22につづく)

Photo:T.AOSAWA

【Profile】
青澤隆明 あおさわ・たかあきら

音楽評論家。1970年東京生まれ、鎌倉に育つ。東京外国語大学英米語学科卒。主な著書に『現代のピアニスト30—アリアと変奏』(ちくま新書)、ヴァレリー・アファナシエフとの『ピアニストは語る』(講談社現代新書)、『ピアニストを生きる—清水和音の思想』(音楽之友社)。