Aからの眺望 #19
インクはいま薫っていますか?

文:青澤隆明

 朝に連れられて、また一日がやってくる。新しい光が、遥かな遠方から届いてくる。
 暗闇のなかを通り抜けてきた光が、いま私の手のなかにある。温かく感じられる。それはまず皮膚に伝うが、そのまえに目や、もしかしたら耳や鼻が、その気配を察知している。
 こうしていま、遠い宇宙に燃える太陽の光の放射は、私の内面に触れかかっている。そこからさきは、私の心身がそのゆくえを受けとめることになる。その熱の、その歌の、その物語の続きを——。

 「まだインクも乾ききっていない譜面を、作曲家から直接手渡されることには特別な感動がある」。新作の初演を託された演奏家は口々に、そのときの興奮を語るだろう。いま私がすぐ思い出したのは、たとえばジャン=ギアン・ケラスがどこか剽軽な表情でその感動を表明してみせた場面だが、それは多くの真率な演奏者に通じるはずだ。
 その興奮はもちろん、未知のなにかへの触手が求める刺激であり、そして演奏を遂げることに臨む責任からくる。しかし、なによりもまっさきに、作曲家が思い描き、想像力が創り出した世界が、誰よりも先んじて自分の手のなかにある、という秘めやかな感動が、そこには生々しく宿っているに違いない。つまりそれは、作曲家の内面以外に、おそらくまだ誰も聴いたことのない音楽であり、創作者自身もまた外部からの響きとして経験したことのない世界である。
 なんと言っても、まだ誰の手にも渡っていない、彼らだけの間でそっと明かされる秘密のようなものなのだ。初演という言葉に掻き立てられるようにしてその場に立ち会うことが、聴きてにとってある種巡礼のような趣を帯びるのは、もしかしたら歴史的なものになるかもしれないその初々しい生成の瞬間に我こそは立ち会っているという、目撃者の現場感覚が強まるからだろう。
 もっとも、なにも初演にかぎらず、しかも初めてのことでなくとも、ほんとうはすべてが一期一会の性質をもつものだ。もっと言えば、それは可能性ではなく、事実に属している。
 音楽会に私たちが際限もなく足を運ぶのは、そうした時間に参画したいという期待と欲望にそうものであるはずだ。私個人のことを言うなら、とくに歴史的な、モニュメンタルな、といった大仰な形容詞を求めるものではなく、ただそこで私自身の思考や感覚がいくらかでも刷新されるとか、なんらかの啓発があってほしいという望みが儚いものであれ、そこにはいつも帯同しているのだろう。
 初めて聴くことになる作品や演奏者であれば、なおさらのことだし、旧知の曲であっても、そのときどきに新たに拓かれる展望を求めての行脚である。聴くだけでそうであるならば、くり返し作品の演奏に携わる奏者にとっては、こうしたことがさらに切実な動機となってくるだろう。そして、望んだときに与えられるものではないのが、この世のならいなのである。

 おなじようなことは、初めての楽譜を開いたときにも訪れる。指で音に触れようとするのに先んじて、そこになんらかの光景が広がっていくのを、私たちは感じるだろう。書物に関しては紐解くという言葉がぴったりなように。本を開いて目を走らせることよりもまえに、一冊の書物を手にとって、自分の手で開くという行為が介在する。目を留めて、興味を察知するその瞬間に、光はそのページに触れかけているのだ。
 しかも、そのページがまだ固定されていない、つまり乾ききってはいないとしたら――。刷り上がりの印刷物がインクのにおいを温かく留めているのを、私たちはまずは鼻腔や肌触りで受けとめるだろう。視線が交わり、音符や言葉の連なりが像をまとめていくよりさきに、そうした感覚的な刺激がまずある。コンサートということになぞらえるならば、その感覚は会場へ向かう、もしくはそこへ興味が向かった瞬間にも発動していて、それを決定づけるのは偶然であるにせよ必然にあるにせよ、直観という経験値にもとづくアンテナである。
 とめどもなく膨大に、ときには無為に流れてみえる時に漂流し、ときには溺れかかるようにして、私たちが興味を向けるのは、そうした社会や個人の時の流動が背景にある証だ。

 さて、こんなふうに書き連ねてきて、このさきがどうなっていくのか、ほんとうのところ私は知らない。どこかではわかっているのかもしれないのだが、いま書いている私は、そのことを知らない。漂うように白い紙の、事実を言えば白い電子画面のうえを、浮かび上がる文字とともに刻々と歩んでいるさなかだ。そうでなければ、書くことの楽しみは、設計と彫琢により強く傾いてくるだろう。しかし、いまの私はただ散歩をしているだけだ。本格的に冬だし、外がとても寒そうなので、部屋のなかでぶらぶらしている。宛先のない手紙をふと綴っているように。
 演じることは、これとは大なり小なり違う。ある作品が先んじて成立していて、その表現の場に参画する際の話である。多くの場合、演劇には台本が、演奏には曲が、あるいはアイディアのプランがある。地図のようなものは、あらかじめ手渡されている。そこが想像力の発火点となる。それをどのように読み、どのように辿り、その瞬間ごとになにを見出し、他者に伝えていくかということが、そのさきに拓かれる演者の営みになる。
 クラシック音楽の演奏において、楽譜が大きくその枠組みを決定づけるのは、この点においてだ。しかし、その作品に潜んだ、つまりは私的や公的に籠められた意味というものは、すべてが記号化されて譜面に明示されているわけではない。ひとつひとつの作品は、たんに個別に世界に存在するものではないからだ。自律した独立性をもって他と区別はされながらも、より広大な鉱脈や文脈と繋がっている。たとえば作者の、たとえば時代や社会や歴史的な情況と関わりをもちながら、その作品はその作者や時代の一行や一段落、あるいは一章を築くものとなる。
 新作と初演者の関係は、第一に現在という時間に遭遇の場をもつことで、相互に浸透性をもっている。たとえば、作品を捧げる相手、献呈先や宛先があり、演奏の場という具体的な機会が明確な場合は、とくにそうだ。現在や同時代という磁場が、共通の空気や前提条件としてある。
 しかし、そうでなくても、つまりなにも新作に限ったことではなく、ある作品を現在の場所や文脈に改めて置くということ自体が、すでにそうした選択や審美、批評性の表明を帯びている。もしもそれが、ただそこにあっただけという理由であれ、その偶然にはやはり機縁があるものだ。たとえ、いまそのことが漠然とでも意識に結びつけられてはいないとしても。

 クラシック音楽の、とくによく聴き馴染んだ作品——そういうふうに私たちが思いたがる曲に際して、演奏の現場で起こっていることは、実際にはさまざまな事情や要件が複雑に込み入ったもので、うまく行っている場合はそれらが見事に溶け合って共鳴しているのだろう。
 作品の筋はあらかた知っているし、最後に行くべき地点も、山あり谷ありの外形も知っているつもりだ。しかし、ほんとうにはまだ、なにもわかってはいないのである。作品は書かれてあり、演奏家も聴き手も、その作品にくり返し触れている。いわば、よく知っている話なのだ。だが、音楽のなかの出来事や登場人物は、そのさきどこに行くかをわかりきってはいない。
 調性音楽の大半は、家に帰りたがっているものとして、出かける先も帰り道も知っている。そのはずなのだが、無事にそれを辿れたとして、ほんとうに帰着するさきがおなじ家なのかは、近づいてみるまではまだ、あるいはいざ辿り着いてみないことには決して確かではないのだ。少なくとも、安心の深度は、その出かけかたと道々での出会いかたにかかっている。
 幾度も読んでいるはずの物語を再読するときもそうだ。たんに忘れているところがあるということではなく、なにかがいつも違ってみえるのは、それが読み手のいまとその時点までの経験に関わり合ってくるからだ。人間はまばらな生き物なのであって、確固たる既存の事物ではない。心象やその共鳴が、ときどきに応じて風景や趣を変えるのだ。「いつもとおなじかもしれないけど、心が違う」。小三治師匠なら、そんなふうにおっしゃるだろう。
 私たちが演奏のさなかに感じていたいのは、その作品が新作であれ古い時代の作であれ、そのときのインクのにおいが薫ってくる、少なくともそれを演奏者が自らの嗅覚で嗅ぎとって、その生々しい感動をその場に放っていく、その固有の時間を生きぬくプロセスそのものなのではないか。
 作品の構築性は、そうした瞬間の積み上げ、動揺や崩しを通じて、生きた時間のなかに組み立てられていく。もしかしたら、古いインクのにおいの残り香しかそこには存在していないとしても、読み手の嗅覚が察知するのは、まさしく作曲家がペンを走らせているその瞬間に、時々刻々と行きつ戻りつする時間の生理であり、その創造性が拓かれていく光景なのだ。そうでなくとも、演奏者が作品そのものに触れるその瞬時の手の感覚に宿る、創造的発生の熱を伝えるなにかであるだろう。
 インクのにおい、手の動き、去来する思い、打ち震える思考、そうしたものがひとときに織りなされていった道行が作品として、いまこそそれを鳴り響かそうとする人の手のうちにある。
 つまりは、乾いた記譜を、もういちどいまの空気に触れさせることで、インクの薫りを解き放ち、私たちに嗅ぎとらせる、あるいは私たちが知覚するところまで発現させるのが演奏の領域だ。聴き手にとってみれば、それは耳を澄まし、鼻をきかせて、こちらから手を伸ばすことで、初めて出会うことができるにおいである。いいにおいに連れ出されて、私たちはもともとは他者がみたはずの夢をみることがゆるされる。
 インクはいま薫っているか? と、私の感覚はそのたびごとの私の心に問いかけるだろう。

【Profile】
青澤隆明 あおさわ・たかあきら

音楽評論家。1970年東京生まれ、鎌倉に育つ。東京外国語大学英米語学科卒。主な著書に『現代のピアニスト30—アリアと変奏』(ちくま新書)、ヴァレリー・アファナシエフとの『ピアニストは語る』(講談社現代新書)、『ピアニストを生きる—清水和音の思想』(音楽之友社)。