蘇った! ショパン最後のピアノ | 川口成彦のフォルテピアノ・オデッセイ 第8回

フォルテピアノ奏者、川口成彦さんが世界各地のフォルテピアノを訪ね歩く連載シリーズが、実に4年半ぶりに復活! 今回は、ワルシャワにあるショパンゆかりのピアノのお話です。

第8回 蘇った! ショパン最後のピアノ

text & photos:川口成彦

ショパンは21歳でフランスでの生活を始めてから当時のパリを代表するピアノメーカーであるプレイエル社のピアノを音楽活動の重要なパートナーとしました。プレイエル社はオーストリアの作曲家イグナーツ・プレイエルがフランスに渡ってから創業したメーカーで、ショパンの時代には彼の息子カミーユ・プレイエル Camille Pleyel(1788-1855)が社長を務め、ショパンとも親密な関係を築いていきます。

そして、ショパンは39歳で亡くなるまでの間に10台以上のピアノをプレイエル社から贈られたと考えられており、その最後のピアノが1848年11月に贈られたシリアルナンバー14810の楽器で、パリのヴァンドーム広場 Place Vendôme にあるショパンが生前最後に住んだ家に置かれました。1849年10月17日のショパンの死後は、彼の愛弟子の一人ジェーン・スターリング Jane Stirling(1804-1859)が同年12月11日よりそのピアノを所有するようになり、その後スターリングの好意から、ピアノは1850年8月にワルシャワにいるショパンの姉ルドヴィカのもとに渡りました。

ショパン・ミュージアム(ワルシャワ)  

長い月日を経て、今ではワルシャワのショパン・ミュージアムにてその楽器を見ることができます。近年まで演奏できないコンディションだったのですが、2021年12月3日から12日にかけて、ポール・マクナルティ Paul McNulty によって修復が行われ、ショパン最後のピアノはその音色を蘇らせました。大作曲家が所有していた楽器ということで長年大切に扱われてきたのか、部品の大部分が良好な状態であったため、オリジナルの状態をほぼほぼ維持しながら修復が行われたそうです。マクナルティ自身も「これまで見てきたプレイエルの中でもベストな保存状態のものだ」と語っていますが、当時のものに近い弦を新しく張り替えることが主な修復内容だったとうかがいました。

インタビュー音声収録の関係で譜面台のところまで蓋を開けています

さて、2022年6月にワルシャワの国立ショパン研究所(NIFC)から、ショパン最後のピアノを事前に触れることなくいきなり弾いてみて、その感想を伝えるというインタビュー企画にお誘いいただき、念願叶ってこのプレイエルを弾くことができました。そしてインタビューの後に30分だけ自由に練習させてもらいました。それは私にとって本当に感動的な時間となりました。その時考えたことや思いを、一般公開することを前提に、終わった直後にメモしていたので、以下にそのまま掲載してみます。

*****

ショパンの時代のシングルエスケープメントのプレイエルは天から舞い降りてくるような特別な音色があります。修復状態が良い楽器の場合は、音の浮遊感がものすごく、聴覚を超越して音に匂いさえも感じてしまうほどです。ハンマーが弦を叩くというよりも、生身の人間が声を出しているようで、その音色はまさに夢心地です。私が触れてきた数々のプレイエルからそれらの特徴をいつも感じていたので、そういった特色がまさにプレイエルの独自性なのだと私なりに理解していました。

しかしながら、このたび初めて耳にしたショパンの最後のプレイエルの音色には本当に驚きました。私が今までプレイエルから感じていた特色とはレベルが違っていました。強いて言えば、ヴェルサイユに工房を構えるオリヴィエ・ファディーニ Olivier Fadini が修復したプレイエルのピアニーノ(小型アップライトピアノ)の天上の響きに近いものがありました。天から舞い降りた音が、宙に浮遊しながら、また天に舞い戻って行きそうな感じで、音が決して地面に落ちることなく、手の届かない世界にまで聴く者を連れて行ってくれます。この音を聴いていると空に自分が浮いているような気分になります。その響きから、例えばバラード第2番の冒頭の穏やかなセクションに書いた長い長いスラーのイメージがよく湧きました。演奏者が長いスラーを自らの技術で実現するというよりも、楽器が勝手にその長い歌を歌ってくれるという感じで、実に弾きやすかったです。

感動的な試奏タイム

ショパンは生徒が鍵盤を叩くような弾き方をした際には「犬の吠え声を出してはいけない」と忠告したようですが、このプレイエルからは(ショパンにおける)フォルテやフォルティッシモというものが音の力強さというよりも音の豊かさ、音の果てしない広がりなのだと改めて教えられているような気がしました。もちろん力強いフォルテやフォルティッシモが求められるようなキャラクターも作品によってはたくさんあります。しかし、ただ単純に大きい音を出すというのは非常に安易な思考なのではないかと気付かされます。

音の余韻の豊かさゆえに、ショパンのペダリングへのこだわりも納得いくものがありました。ショパンの作品にはペダルを長く踏ませる部分をしばしば見つけられる一方、ノンペダルを示唆するセクションも多く見られます。ノンペダルで弾くことを躊躇してしまいそうなところも、この楽器の余韻の中であれば、ノンペダルで弾くのも納得が行きます。矛盾した表現ですが「潤いのあるドライ」な音色がとても心地よいのです。夜想曲第2番などに見られるように、ペダルを踏みながら左手のバスラインをスタッカートで弾く場合も、プレイエルの音色が常に浮遊してくれるからなのか、スタッカートのキャラクターを損なうことなく自然に弾けるように感じました。もちろんベストな響きや効果を生み出すためにペダルの踏み具合は重要な問題になってきますが。

それから演奏速度についても考えさせられました。音が決して地面に落ちることなく、演奏者を空中浮遊させてくれるがごとく上の方に漂っていきます。こうした音の伸びやかさゆえに、次に音を出すまでにずっと時間を楽しんでいたくなります。ですので、どんなに速いセクションであっても、その速度や表現の中でベストの時間を追い求めたくなるのです。指で弾くピアノではなく、耳で弾くピアノであるという印象を強く受けました。そしてこのプレイエルに限らず、ピアノは耳で弾かなければならないな、と強く胸に刻まれた体験でした。

楽器のタッチは鍵盤からの抵抗はほとんどなく、柔らかな枕か何かにそっと手を添える時のようにしなやかに鍵盤が上下に動きます。綺麗な水の中にゆったりとたゆたう光のように、手を泳がせたくなります。「ピアノを弾く」ということ自体に一生懸命にならなくて良いんだよ、とピアノが言ってくれているような気がしました。技巧的な作品においては、演奏の目的がテクニックを誇示すること自体に完結しかねないピアニストに対しては「あなたは私ではない他の誰かとその作品を奏でてみたらどうかしら。もし私とどうしても演奏したいなら、もう少し私の気持ちを察して下さる?」と静かに語りかけてくれそうな気がします。

このとき楽器を練習できたのはわずか30分ほどでした。もっと楽器を弾き込めば新しく気づくこともたくさんあると思いますが、今回楽器から教えられたことを忘れないようにここに記しておきたいと思いました。夢のような貴重な時間で、生涯をかけてもっともっとショパンを追い求めたいと、改めて強く思える大きなきっかけとなりました。

*****

2023年にはドミトリー・アブロギンがショパンの最後のピアノでNIFCよりCDをリリースしています。ショパンの晩年の作品を貴重なピアノでお楽しみいただけます。

ジェラゾヴァ・ヴォラのショパンの生家

この貴重な経験をした2022年のポーランド滞在中には、ショパンの生家のあるジェラゾヴァ・ヴォラでの日曜コンサートで演奏もしました。生家の中でピアニストが奏でる音楽が、スピーカーを通して広大な公園のような敷地内に流れ、お客様はその音楽を楽しむという催しです。そこでは1838年のエラール(NIFC所蔵)を演奏させていただきました。ライブ配信も行われる緊張感の中、生家の中から目に見えぬ聴衆たちに向かって演奏をするというのはなかなか稀有な体験。けれどショパンの魂が宿っている場所で、ショパンの時代のピアノを演奏できるということは本当に幸せな時間でした。

1838年のエラール。ショパンの生家にて

川口成彦 Naruhiko Kawaguchi
1989年盛岡に生まれ、横浜で育つ。第1回ショパン国際ピリオド楽器コンクール第2位、ブルージュ国際古楽コンクール最高位。フィレンツェ五月音楽祭や「ショパンと彼のヨーロッパ」(ワルシャワ)、モンテヴェルディ音楽祭(クレモナ)をはじめとした音楽祭に出演。協奏曲では18世紀オーケストラ、{oh!}オルキェストラ・ヒストリチナなどと共演。東京藝術大学楽理科卒業後、同大学およびアムステルダム音楽院の古楽科修士課程修了。フォルテピアノを小倉貴久子、リチャード・エガーの各氏に師事。第46回日本ショパン協会賞、第31回日本製鉄音楽賞 フレッシュアーティスト賞受賞。こよなく愛するスペイン音楽においては、自主レーベルMUSISによるCD『ゴヤの生きたスペインより』や自主公演「スペインの森」といったプロジェクトを展開中。

第1回 ワルシャワ時代のショパンが所有したピアノの復活
第2回 オマーンにモーツァルトの時代のピアノ上陸
第3回 ベートーヴェンの真の生誕地と噂される街のピアノ博物館の危機
第4回 古都ブルージュの国際古楽コンクール
第5回 ヴェルバニアでロマン派に想いを馳せて
第6回 アムステルダム・運河の街のエラール
第7回 ソウルのソさんを訪ねて

【Concert Information】
川口成彦 フォルテピアノ&ピアノリサイタル 二人のフレデリク Fryderyk&Frederic
2024.9/28(土)15:00 船橋市民文化ホール
川口成彦 サロンコンサート ~ベーゼンドルファーピアノを味わう~
9/29(日)14:00 ヤマハミュージック 大阪なんば店 2Fサロン 完売
川口成彦 フォルテピアノ・リサイタル
10/6(日)14:00 三鷹市芸術文化センター 風のホール
川口成彦 フォルテピアノ・リサイタル
10/18(金)19:00 北九州市ウェルとばた(戸畑市民会館)(中)
川口成彦 フォルテピアノ・リサイタル ~静寂と情熱の午後~
10/20(日)14:00 名古屋/宗次ホール
マリオ・ブルネロ&川口成彦 デュオリサイタル
10/24(木)19:00 紀尾井ホール
サロンに響くプレイエルの詩(うた)第3回 川口成彦×オール・ショパン
11/2(土)15:00 高崎/アトリエミストラル
川口成彦 フォルテピアノ・リサイタル with 若松夏美
12/14(土) プラッツ習志野
川口成彦 フォルテピアノ・リサイタル
12/21(土)15:00 かつしかシンフォニーヒルズ アイリスホール
川口成彦フォルテピアノリサイタルシリーズ2024 ―女性作曲家への憧れ―
12/28(土)15:00 フェニーチェ堺(小)