2018年、第1回ショパン国際ピリオド楽器コンクールで見事第2位に入賞し、一躍脚光を浴びた川口成彦さん。現在、アムステルダムを拠点に演奏活動をおこなう傍ら、世界中の貴重なフォルテピアノを探し求めて、さまざまな場所を訪ね歩いています。この連載では、そんな今もっとも注目を集める若きフォルテピアノ奏者による、ほかでは読めないフレッシュな情報満載のレポートを大公開します!
第6回 アムステルダム・運河の街のエラール
text & photos:川⼝成彦
アムステルダムはスキポール空港から僅か20分で中心地に到着出来るという好立地であり、トランジット旅行を楽しむ人々も含めて数多くの観光客で賑わう街です。「アムステルダムのシンゲル運河内の17世紀の運河環状地区」がユネスコ世界文化遺産に登録されており、400年の歴史を持つ運河の街並みは歴史的情緒を持ち大変魅力的です。ムゼウムプレイン(Museumplein)というエリアには世界三大オーケストラの一つであるロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団の拠点であるクラシック音楽の殿堂コンセルトヘボウ、そしてレンブラントやフェルメール、ゴッホといったオランダの名画家の作品を揃えた美術館(アムステルダム国立美術館、ゴッホ美術館)が建ち並び、芸術の薫りが漂います。
また昔の絵画のまま美しく残る歴史的建築や、古い美術品や調度品を揃えた骨董通りなどを巡ると、現代に生きながらも古い物を重んじる街の一面を覗くことが出来ます。このようなアムステルダムにも貴重な歴史的ピアノが数多く見られますが、その中でもアムステルダム国立美術館に展示されている1808年のエラールとの出会いはやはり感動的なものでした。
この楽器はナポレオン・ボナパルト(1769-1821)の弟であるルイ・ボナパルト(1778-1846)が音楽が大好きな妻オルタンス・ド・ボアルネ(1783-1837)のために特注したものです。オランダはフランス革命の影響下でフランスの衛星国として存在していた時期がありました。イギリス侵攻のためにオランダはフランスにとって重要な地域で、ルイ・ボナパルトはバタヴィア共和国(1795-1806)の後に成立したホラント王国(1806-1810)にフランス皇帝ナポレオン1世から国王ローデウェイク1世として送り込まれたのでした。そしてこのピアノはその時期にパリからアムステルダムにやってきた楽器で、王宮内のコンサートホールに置かれていたそうです。ピアノが特注されたきっかけであるオルタンスはハープやピアノを演奏した他に作曲も行なっていました。彼女が作曲したロマンス『忠実な騎士 Le bon chevalier』はシューベルトの連弾曲『フランスの歌による変奏曲 D624』(1818年作曲)の主題に使われたことでも有名です。この美しいエラールでもきっとオルタンスにより素敵な旋律が数多く紡がれたことでしょう。
オルタンスが愛したこの「エラール」というピアノですが、これはフランスのセバスチャン・エラール(1752-1831)によって創業し、20世紀前半まで続いたメーカーです。製造はパリおよびロンドンにて展開されました。エラール社はピアノが劇的に変容した18世紀から19世紀に渡って新しい発明および特許を数多く生み出し、ピアノの歴史を語る上で欠かせない存在です。そしてハイドン、ベートーヴェン、リスト、ヴェルディ、ラヴェルと様々な作曲家がエラールを所有し、各時代の最先端のピアノ音楽にも大きな影響を与え続けました。エラールの発明の中でも特に重要なものは1808年に考案されたハンマーのリペティション(反復)機構です。これは鍵盤が完全に上まで戻る前に再びハンマーを上に動かして音を出せるようにするシステムで、この発明によりそ音の連打が行いやすくなりました。このシステムは1820年代および30年代にセバスチャンの甥のピエール・エラール(1794-1855)によって更に改良されました。エラール社によって発明および改良されたこのシステムは「ダブルエスケープメント」と一般的に呼ばれています。改良以降は連打音の可能性も大きく広がり、リストの有名な『ラ・カンパネラ』をはじめとした連打音が印象的な超絶技巧でアクロバティックなピアノ音楽の誕生に大きく寄与しました。
アムステルダム国立美術館のオルタンスのエラールはベートーヴェンの時代のエラールです。ベートーヴェンが作曲で使用したピアノは時期によって大きく異なりますが、このようなエラールでは『ワルトシュタイン』や『熱情』が作曲されたと言われています。このオルタンスの楽器で特に目を惹くのはヴァラエティーに富んだペダルでしょうか。4本ある足ペダルは右からリュートペダル、ダンパーペダル、モデレーターペダル、ソフトペダルです。リュートペダルというのはチェンバロによく見られるリュートストップ(バフ・ストップ)と同様の効果を持ったもので、弦にフェルトまたは皮革を付着させることでリュートのような音色に変化させる装置です。そしてモデレーターは弦とハンマーの間にフェルト状のものを挟み込むことで霧がかったような幻想的な音色を出せるようにする装置です。そして実はこの楽器にはこの4本のペダルの他に膝によってレバーを押し上げることで紙状のものを弦に付着させてジージーいった音色を出させる装置も付いています。これはファゴットあるいはバスーンと呼ばれています。この時代の弦に物質を当てて音色を変えるという発想はジョン・ケージ(1912-1992)のプリペアド・ピアノと類似しています。2017年5月にオランダを代表する世界的フォルテピアノ奏者のロナルド・ブラウティハムがこのオルタンスのエラールを使ってアムステルダム国立美術館で演奏会を行い、ベートーヴェンの作品を弾きました。この公演は貴重なエラールの音色も聴くことが出来て幸せな一時でした。
ところで昔アムステルダムの街を自転車でふらふら巡っていた時に素敵なお店を見つけて舞い上がったことがありました。そのお店の名前は 「メゾン・エラール(Maison Erard)」というもので、エラールのピアノに愛と情熱を捧げるフリッツ・ヤンマートさんの秘密基地のような場所でした。店内には数多くのエラール(およびプレイエル1台)が並んでおり、セバスチャン・エラールの肖像画も飾られていました。ピアノを修復する作業場が奥にあり、そこには修復途中のエラールが静かに佇んでいました。メゾン・エラールには時々遊びに行って楽器を弾かせてもらったり、フリッツさんのエラールへの愛情溢れるお話を伺ったりしました。
この素敵なお店は今年の6月にアムステルダムからさらに北に位置するエンクホイゼンという街に移りました。アムステルダムのあの情緒ある空間が無くなってしまったのは少し残念ですが、新しいお店のオープンは心からお祝いしたい気持ちでいっぱいです。さらにフリッツさんが長年書いてきたセバスチャン・エラールに関する500ページに及ぶ著書がついに完成したという素晴らしいニュースもありました。本はオランダ語だけでなく英語版、ドイツ語版そしてフランス語版も出版されるそうで、さらに「日本語版も作りたいと考えているよ!」と嬉しいことも仰って下さいました。フリッツさんのエラールへの強い想いにはとても感動します。ちなみに日本語版作成のための翻訳者をフリッツさんが現在募集されています!近い将来日本語版が無事に完成しますように!