古都ブルージュの国際古楽コンクール | 川口成彦のフォルテピアノ・オデッセイ 第4回

2018年、第1回ショパン国際ピリオド楽器コンクールで見事第2位に入賞し、一躍脚光を浴びた川口成彦さん。現在、アムステルダムを拠点に演奏活動をおこなう傍ら、世界中の貴重なフォルテピアノを探し求めて、さまざまな場所を訪ね歩いています。この連載では、そんな今もっとも注目を集める若きフォルテピアノ奏者による、ほかでは読めないフレッシュな情報満載のレポートを大公開します!


第4回 古都ブルージュの国際古楽コンクール
〜未来への架け橋〜

text & photos:川⼝成彦

ベルギーの古都ブルージュ(フラマン語表記で「ブルッヘ」とも呼ばれる)は中世の面影を残した歴史地区が世界遺産に登録されている他、べギン会修道院や鐘楼も世界遺産に登録されている文化的に華やかな街です。エーリヒ・ヴォルフガング・コルンゴルト Erich Wolfgang Korngold(1897-1957)のオペラ《死の都》の舞台としても知られるこの街は、1960年から始まった歴史のある古楽音楽祭でも多くの人々を魅了してきました。この音楽祭は今日では「MAfestival Brugge」という名称で知られています(「MA」は「Musica Antiqua」の略記)。

マルクト広場の州庁舎
運河と遠くにそびえ立つ鐘楼

さてこの音楽祭では、1964年から「ブルージュ国際古楽コンクール」が開催されるようになりました。オルガン、チェンバロ、通奏低音、リコーダーおよび旋律楽器、声楽、アンサンブル等を対象にコンクールが行われ始め、1983年からフォルテピアノ部門も設立されました。グスタフ・レオンハルト Gustav Leonhardt(1928-2012)、フランス・ブリュッヘン Frans Brüggen(1934-2014)、アンナー・ビルスマ Anner Bijlsma(1934-2019)、トン・コープマン Ton Koopman、ジョス・ファン・インマゼール Jos Van Immerseel といった錚々たる顔ぶれが歴代の審査員に名を連ねる他、入賞者においても今日の音楽界を牽引する方々の名前が数多く見られます。フォルテピアノ部門の入賞者では、2001年に優勝したクリスチャン・ベザイデンホウト Kristian Bezuidenhout の今日の活躍は特に目覚ましく、近年では古楽オーケストラのみならずロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団やライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団など、モダン楽器の一流オーケストラの公演にもソリストや指揮者として姿を見せています。

さて、今年もフォルテピアノ部門が開催されました。今回は、長年審査員を務めてこられたアレクセイ・リュビモフ Alexei Lubimov が審査員を離れ、アムステルダム在住の七條恵子さんが審査員に選ばれたという点で、日本人として注目すべき回でもありました。コンクールは8月1日から7日にわたって開催され、予選、セミファイナル、ファイナルとすべてブルージュのコンセルトヘボウで行われました。「コンセルトヘボウ」と言えばアムステルダムの有名なホールを思い浮かべる方が多いかもしれませんが、ブルージュにも同名のホールがあります。

ブルージュのコンセルトヘボウ外観

コンクールで使われる楽器は、ベルギーの著名なフォルテピアノ製作家および修復家であるクリス・マーネ Chris Maene によって提供されたものです。マーネは、2015年にダニエル・バレンボイム Daniel Barenboim の発案のもと、スタインウェイ社の協力を得て、平行弦の新型モダンピアノを開発したことでも知られています。今日のピアノは交差弦が通常ですが、18世紀や19世紀のピアノではごく当たり前であった平行弦を現代に蘇らせるということが非常に画期的で注目を浴びました。今回は、予選でヴァルター(Anton Walter, ウィーン・1795年)およびフリッツ(Johann Fritz, ウィーン・1810年)のコピー楽器が用いられ、セミファイナルでは予選の楽器に加えてブロードウッド(John Broadwood, ロンドン・1817年)のコピー楽器も使われました。そしてファイナルではグラーフ(Conrad Graf, ウィーン・1836年)のオリジナル楽器に加えて、コンペティターの要望によりグラーフ(1823年頃)のコピー楽器もステージに並びました。

ファイナル休憩時の調律

また、会場のロビーではスクエアピアノやキャビネット型ピアノ、ジラフピアノの展示も行われました。ジラフピアノというのは通常のアップライトピアノとは少し違い、グランドピアノのボディをそのまま縦型にしたようなピアノです。キリンのような形をしていることから「ジラフピアノ」と呼ばれています。ところで私がこのコンクールに参加した2013年と2016年にはこのような展示は行われていなかった上、コンクールで使用される楽器も古典派の時代のみにフォーカスされて台数が少なかったので、今回の楽器の賑わいには驚きました。昔はこのような展示が大々的に行われていたそうなので、その頃のように財政的にも少し余裕が生まれたのかもしれません。

ピアノの展示

コンクールではファイナルの現代音楽の新作を除いて、使用楽器と同時代の作品が演奏されます。今回はセミファイナルで古典派の作曲家だけでなく、フランツ・シューベルト Franz Schubert(1797-1828)あるいはフェリックス・メンデルスゾーン Felix Mendelssohn Bartholdy(1809-1847)の作品の演奏も求められました。そしてファイナルではヨハン・ネポムク・フンメル Johann Nepomuk Hummel(1778-1837)が室内楽編成(フルート、ヴァイオリン、チェロ、ピアノ)のために編曲したヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト Wolfgang Amadeus Mozart(1756-1791)の《ピアノ協奏曲第24番 ハ短調 KV 491》が課題となっていることがとてもユニークでした。また近年ではコンクールのために書かれた現代作品の演奏も曲目に入っており、今年はベルギーの作曲家フランク・アグステリッべ Frank Agsteribbe による《The Drowned Land》が演奏されました。

今回ファイナルのみを聴いてまいりましたが、ファイナリスト5名の演奏がそれぞれ奏者の個性に溢れており、とても楽しかったです。フンメル編のモーツァルトの協奏曲はヴァイオリンのチェチリア・ベルナルディーニ Cecilia Bernardini、チェロのマルクス・ファン・デン・ムンクホフ Marcus van den Munckhof、フルートのアナ・ベッソン Anna Bessonといった名手との共演で優雅な時間でした。優勝はアウレリア・ヴィソヴァン Aurelia Vişovan(ルーマニア)、第2位はドミトリー・アブロギン Dmitry Ablogin(ロシア)、第3位はエミール・ダンカン Emil Duncumb(ノルウェー)。そしてその他のファイナリストであるエカテリーナ・ポルヤコヴァ Ekaterina Polyakova(ロシア)とツー・ユー・ヤン Tzu Yu Yang(台湾)には審査員特別賞が送られました。

アウレリア・ヴィソヴァン
C)Felix Abrudan

ところで日本はフォルテピアノ教育がアジアの中でも群を抜いて進んでいます。ヨーロッパから遠く離れた国にもかかわらずフォルテピアノの教育が行われていること自体、よくよく考えてみるとものすごいことだと思います。そのきっかけの一つにブルージュのコンクールにフォルテピアノ部門が設立された1983年の次の回にあたる1986年に、小島芳子さん(1961-2004)がアジア人として初めて入賞されたことが挙げられるのではないでしょうか。そのような小島さんが、日本の音楽大学(東京藝術大学、東海大学など)のフォルテピアノ教育の黎明期に大きく関わられたことは今でも忘れてはならないことです。私は小倉貴久子先生との出会いがまさにフォルテピアノに引き込まれたきっかけでした。彼女はブルージュのコンクールのフォルテピアノ部門でアジア人として唯一の優勝者(第1位受賞者)であり、小島さんの後を引き継いで、2004年から今日まで東京藝術大学でたくさんの若き学生たちに古楽器の魅力を伝えてこられました。私は藝大の楽理科2年在学時にフォルテピアノのレッスンを受講し始めましたが、当時まだ堅苦しいと思っていた古楽のイメージが、小倉先生の面白いレッスンにより根底から大きく崩れたことを今でも覚えています。フォルテピアノ部門において日本人は小島さん、小倉先生の他に宮坂純子さん、平井千絵さん、七條恵子さん、羽賀美歩さん、私(川口成彦)がブルージュ国際古楽コンクールの公式ホームページ (https://mafestivalcompetition.com/en/)の中の入賞者リスト(Hall of Fame)に名前を連ねています。7人という人数はアジアの国においては飛び抜けているのです(アジアに限らず世界的にも!)。ちなみにアジアの入賞者は日本以外では韓国人入賞者が1名います。

さて、今回ルーマニア人が初めて優勝したこと、台湾人がファイナリストになったことはとても貴重なことだと感じました。それぞれの国のピアノ文化の新しい未来に繋がっていくような気がします。台湾はバロック音楽の古楽演奏が増えてきているようですが、将来的には必ずフォルテピアノでの古典派やロマン派の演奏も広く享受されていくだろうと思います。未来に向けて、ブルージュ国際古楽コンクールはこれからもまだまだ続きます。次回のフォルテピアノ部門開催は2022年です。