text:香原斗志(オペラ評論家)
実は、あまり好きではなかった
舞台にいるだけで強烈に発せられるオーラにおいて、いまアンナ・ネトレプコ以上の歌手はいない。実演は当然だが、ライブビューイングであっても、彼女が現れた瞬間に空気が変わるのが感じられるから不思議である。役に深く没入している証しでもあるし、彼女が発する声のすみずみまで、役が乗り移っているように感じられる。そうしたあれこれの相乗効果が、オーラとなって表れるのだろう。
もちろん、歌そのものに圧倒的な力がなければ、オーラなど生まれようがない。出演するオペラは以前にくらべ、かなりドラマティックなものになった。ヴェルディなら、マクベス夫人や《イル・トロヴァトーレ》のレオノーラなど劇的なアジリタを伴う役から、後期の《アイーダ》の表題役、《運命の力》のレオノーラ、《ドン・カルロ》のエリザベッタまで、重量級の役を歌っている。ほかに《アンドレア・シェニエ》のマッダレーナ、《アドリアーナ・ルクヴルール》の表題役、プッチーニなら《マノン・レスコー》、《トスカ》、近く《トゥーランドット》の表題役も歌う。《ローエングリン》のエルザもレパートリーにしている。こうして並べると、ドラマティック・ソプラノのレパートリーを列挙したかのように壮観だ。
ネトレプコがこれらの役を歌って、ほかのソプラノと決定的に違うのは、その声がリリックな美しさとやわらかさを保ったまま、強い音圧がかけられて濃厚に発せられる、という点である。また、ピアニッシモからフォルティッシモまでの間の移動がとてもスムーズなので、声のスケールは大きいがフレージングはとても細やか。高音も絶叫にならないどころか、常に音量をコントロールして、極上のピアニッシモで響かせたりする。これが聴き手の心を奪うのだ。
しかし、白状すれば、私は以前、特に《フィガロの結婚》のスザンナや《ランメルモールのルチア》の表題役などを歌っていたころ、ネトレプコというソプラノがあまり好きではなかった。
180度転向したワケ
その理由はまず、少し鼻にかかった独特のくぐもった声が、とりわけイタリア・オペラの場合、言葉の明瞭な響きを妨げているように感じられたことだ。実は、母音がクリアでないという欠点は、いまも解決されていない。次に、ドニゼッティやベッリーニのオペラのヒロインを歌うとき、いわゆるコロラトゥーラにおける声の回し方に粗さが目立ったことだ。しかし、彼女はキメの細かな装飾を心がけるより、よく通る声を響かせることにご執心であるように思えた。だから、芸術的完成度より自己顕示欲を優先する歌手なのか、と誤解したのだ。
転機は、《イル・トロヴァトーレ》のレオノーラだった。倍音がよく響く声を、自在にコントロールして強弱の間を行き来させ、フレーズに色彩を、表情を、そして生命を与えていた。しかも、ヴェルディが随所に書きこんだアジリタを見事に表現していた。
レオノーラは従来、声がドラマティックだというだけで選ばれたソプラノが歌うことが多かった。しかし、ヴェルディは初期から中期にかけては特にソプラノのパートに、ドニゼッティやベッリーニの作品と重なる装飾的なパッセージを少なからず書き込んでいる。だから、アジリタを歌えるソプラノでなければ楽譜通りには歌えない。一方、声の軽い、いわゆるコロラトゥーラ・ソプラノでは、劇的な表現は支えられない。私は得心した。そうか、ヴェルディはネトレプコのようなソプラノを想定して、この役を書いたのか、と。
「粗い」と思っていた声を回す技術は、ヴェルディのオペラを歌うに当たっては、十分すぎる武器になった。「自己顕示欲」と感じていた強い音圧と響きは、ヴェルディのヒロインの劇情を表現するにはぴったりであった。こうして、私はアンチから支持者へと180度の転向をすることになったのである。
アジリタが書かれていない《運命の力》のレオノーラにしても、これほど大きなスケールに繊細さを交えて歌われた例を、ほかに知らない。この役をめぐる運命の過酷さが、表現の大きな振幅のなかに、細やかに描きこまれて圧巻だった。言葉、特に母音が不明瞭なのは、相変わらずではある。だが、彼女の歌の力は、それを補って余りありすぎるのだ。《アイーダ》も《アドリアーナ・ルクヴルール》も同様で、この2役はこの8月から、METライブビューイングのアンコール上演で観られるから、見逃した人は必見だ。
ネトレプコの声には、最初から圧倒的なポテンシャルが備わっていたのだろう。だが、キャリアの初期は、ベルカント・オペラやモーツァルトをレパートリーにして、声を細やかにコントロールする訓練に徹した。地道に丹精込めて声を育てたからこそ、いま大輪を咲かすことができている。
※METライブビューイング アンコール2019では、アンナ・ネトレプコ主演の《アドリアーナ・ルクヴルール》《アイーダ》が上映されます。
詳細は下記ウェブサイトでご確認ください。
https://www.shochiku.co.jp/met/
Profile
香原斗志(Toshi Kahara)
オペラ評論家、音楽評論家。オペラを中心にクラシック音楽全般について音楽専門誌や新聞、公演プログラム、研究紀要などに原稿を執筆。声についての正確な分析と解説に定評がある。著書に『イタリアを旅する会話』(三修社)、共著に『イタリア文化事典』(丸善出版)。新刊『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)が好評発売中。