2024年のマイ・ベスト公演(ピアノ編)/音楽評論家・青澤隆明

文:青澤隆明

 やがて時は満ちて、驚きの瞬間が訪れる。ひたすらそのことを念じて、今年も音楽会に足を運んだ。ずいぶんとたくさんのコンサートを聴いたが、心を震わせ、なにかしら刻まれた真情は、聴き手としての歳月の続きを照らしていくことだろう。音楽のなかではまだ、夢みることがゆるされる。ここでは、鍵盤を介して響いたさまざまな傷や慈愛について、微かに記しておく。

アレクサンドル・カントロフ
Photo by Tatsuya Shiraishi

 なんと言っても、アレクサンドル・カントロフだった。その感銘には畏怖に近いものがある。音楽を弾く、巧みに演奏するばかりでなく、音楽になる、というのが実相だろう。夢をみているのではなく、夢になっているのだ。異界に揺らめく、幻のように。
 ブラームスのラプソディ、リストの2篇、バルトークのラプソディ、ラフマニノフの第1ソナタを経て、バッハ=ブラームスのシャコンヌ、というのがその夜の旅だった。プログラムの流れに鬼気迫るものがあり、サントリーホールにはこれが初登場だったが、ピアノの状態もよく、研ぎ澄まされた響きが大空間でも直截に刺さってきた。これに先立つミューザ川崎公演は、前半がリストとメトネルの第1ソナタで、より清澄な響きで、鮮明なヴィルトゥオジティとともに、鋭利な気魄よりもピアノを弾く心地よさのほうが率直に伝わってきた。

Photo by Tatsuya Shiraishi

 満ち足りたように自然にそこに在った、と大きく感じ入ったのは、イェフィム・ブロンフマンのピアノだった。アンドリス・ネルソンスが指揮するのびやかなウィーン・フィルと、ベートーヴェンのハ短調協奏曲を聴かせたが、特別の主張を表に立たせることなく、あくまでも音楽の望む流れに沿って、謙虚に、しかし豊かに景色を織りなしていった。
 清水和音はひさびさのリサイタルで、レスピーギ、ベートーヴェン、ムソルグスキーと、ピアニスティックな配慮からは離れて書かれた諸作を、存分にピアニスティックに鳴り響かせた。しっかりと実直でストレートな表現が、円熟という言葉とは違う色濃さで、彼という人間の存在感を潔く示していた。

アンドリス・ネルソンス指揮ウィーン・フィル
イェフィム・ブロンフマン(中央)
撮影:池上直哉 提供:サントリーホール
アンドレアス・シュタイアー
©大窪道治 提供:トッパンホール

 成熟と寛容ということを思うとき、じんわりと温かに滲んでくるのは、アンドレアス・シュタイアーがグレーバーのフォルテピアノで織りなした幻想と即興、変奏の一夜だ。持ち前の鋭い創意よりも、やわらかに満ちた感興に、人間の脆さを包む大きさが広がっていた。 
 アンドラーシュ・シフがベーゼンドルファーで手の内にある作品を弾き継ぐリサイタルは二度聴いたが、鎌倉芸術館の午後はより親密でくつろいだ雰囲気に満ち、得難い音楽会となった。理屈や作為から離れ、愛奏曲を慈しむシフのあたたかく素直な感興に、これまでとは違う幸福を私は感じた。

アンドラーシュ・シフ 
Photo by Tatsuya Shiraishi

 ポール・ルイスがヤマハホールでの連日のシューベルトのソナタ選集で、早い時期の2作と終わりの4作を弾くのに触れ、苦悶の果てに辿り着いた最期の許容の心境に胸打たれた。大野和士指揮東京都交響楽団とのベートーヴェンのハ短調協奏曲で示された謙虚な円熟にも。ティル・フェルナーが信頼も篤いマンフレート・ホーネックの指揮でPMFオーケストラと聴かせたモーツァルトの変ホ長調協奏曲K.482にもまた、自然と充足した風格が確かなものとしてあった。

 ピョートル・アンデルシェフスキは、ベートーヴェン晩年とバルトーク初期のバガテルを両端に、バッハのパルティータ、ショパンとシマノフスキのマズルカを織りなす独特のプログラムで、音楽創造と神秘の内実に迫った。紀尾井ホール室内管弦楽団を弾き振りしたモーツァルトのイ長調K.488とベートーヴェンのop.15でも、色濃く人間的な感興を豊かに広げた。
 マルタ・アルゲリッチが5月に来日し、別府アルゲリッチ音楽祭を牽引した。2月に総監督の小澤征爾を亡くした水戸室内管弦楽団と、ラデク・バボラークの指揮で聴かせたプロコフィエフの第3番ハ長調が迫真の出来。80歳を超え、なおも直観と才気の確信のままに、自身の音楽を直截に切り拓いていった。

ポール・ルイス
提供:ヤマハホール
ティル・フェルナー(左)
©PMF組織委員会
ピオトル・アンデルシェフスキ
提供:AMATI
マルタ・アルゲリッチ
提供:水戸芸術館 撮影:大窪道治

 世界的な活躍を続ける藤田真央は、コンチェルトのほか、マルク・ブシュコフやアントワン・タメスティとのデュオも聴いたが、2024年12月12日に一度きりのリサイタルでスクリャービン、矢代秋雄、ショパンの3集を弾き継いだ「72 Preludes」が出色。手の内で濃やかに温めた音楽を、円かな美音でひとつひとつ綿密に息づかせ、多彩な表現を拡げていった。

 貴重な機会と言えば、マクシム・エメリャニチェフがチェロのニコラ・アルトシュテットと組んだフィリアホールでのデュオでは、即興の趣と閃きに満ちた才人どうしの対話が冴えていた。

©池上直哉
藤田真央
©池上直哉
ダニール・トリフォノフ
Photo by Yuri Manabe

 ダニール・トリフォノフは2夜のリサイタルで、まずはラモーから「ハンマークラヴィーア」まで、かたや20世紀作を集めた旺盛なプログラムに、卓抜な鍵盤芸術の威容を示した。イノン・バルナタンは東京春祭で「シンフォニック・ダンセズ」を主題とする独自のプログラムを鮮やかに躍動させた。ピエール=ロラン・エマールは、ベートーヴェンとリゲティ、そしてリゲティ、ショパンとドビュッシーのエチュードを織り交わす巧みな構成で、知性的な愉しみに加え、以前より大らかな表情もみせた。

イノン・バルナタン
©飯田耕治 提供:東京春音楽祭実行委員会
ピエール=ロラン・エマール
撮影:堀田力丸 提供:東京文化会館

 2018年の優勝者ジャン・チャクムルが快活に活躍を拡げるなか、浜松国際ピアノコンクールがパンデミックでの中止をはさみ6年ぶりに開催された。鈴木愛美が第12回にして日本人で初めての優勝を飾り、披露演奏会で入賞者中もっとも素直に音楽への共感を表した。

 ほかにすぐ思い出すだけでも、津田裕也、イーヴォ・ポゴレリッチ、ブルース・リウ、ラファウ・ブレハッチ、トマシュ・リッテル、ユリアンナ・アヴデーエワ、アレクサンドル・メルニコフ、ルドルフ・ブッフビンダー、チョ・ソンジン、エリソ・ヴィルサラーゼ、小菅優、バンジャマン・アラール、フランチェスコ・トリスターノ、小林道夫、ユジャ・ワン、河村尚子、トン・コープマン、ロナルド・ブラウティハム、エフゲニー・キーシン、辻井伸行がそれぞれの進境を示していた。

北村朋幹(指揮・ピアノ)名古屋フィルハーモニー交響楽団
©浜松市文化振興財団

 北村朋幹は2024年を通じて、多種多様に果敢な冒険を、ひとつひとつ真摯に実らせていった。名古屋フィルのコンサートでは、モーツァルトのハ短調K.491とラヴェルの協奏曲だけでなく、《魔笛》序曲、「クープランの墓」も指揮した。春の佐川文庫でのリサイタル、所沢ミューズでのリストの「巡礼の年 全3年」、細川俊夫のピアノ独奏曲、「月に憑かれたピエロ」、アルディッティ弦楽四重奏団と臨んだ細川俊夫「オレクシス」の日本初演、北とぴあでのフォルテピアノ・リサイタルも水際立っていた。創造の原初の光景へのまなざしが、作品生成のプロセスを生きる作曲家への共感を通じて精細に息づくのが、北村朋幹の演奏の真率な愉しみであり、瑞々しく清新な喜びでもある。

北村朋幹、アルディッティ四重奏団
撮影:飯田耕治 提供:サントリーホール

 新しい年には、さまざまな手で、どのような夢が織りなされていくのだろう。音楽は鳴りやまず、心は聴くことをあきらめない。

【Profile】
青澤隆明

音楽評論家。1970年東京生まれ、鎌倉に育つ。東京外国語大学英米語学科卒。高校在学中からクラシックを中心に音楽専門誌に執筆。エッセイ、評論、インタビューを、新聞、一般誌、演奏会プログラムやCDなどに寄稿。主な著書に『現代のピアニスト30-アリアと変奏』(ちくま新書)、ヴァレリー・アファナシエフとの『ピアニストは語る』(講談社現代新書)、清水和音との『ピアニストを生きる-清水和音の思想』(音楽之友社)。「ぶらあぼONLINE」で、「Aからの眺望」を連載中。