2024年も残りわずか。自然災害、記録的な猛暑、物価高騰、国内外の政治情勢の変化⋯ 今年は元日から大きな出来事が続いた激動の一年。音楽界では、名門オーケストラや歌劇場の来日公演、若手アーティストの躍進が目覚ましく、一方で、小澤征爾氏の逝去、井上道義マエストロのラストイヤー、そして首都圏の劇場不足問題など、「現在」そして「これから」を考える年だったように感じます。
そんな一年をふりかえって、評論家3名に印象に残った、あるいは、重要と思う公演をそれぞれの目線で選んでいただきました。2024年は、オーケストラ、オペラ、ピアノの3つのジャンルでお届けします。初回は、音楽ライターの井内美香さんによる、オペラ公演を中心としたふりかえりです。
文:井内美香
2024年のオペラ界は、百花繚乱とも言うべき様々な上演があり、極めて充実した年となった。
まず新国立劇場は、10月の2024/25シーズン開幕公演のベッリーニ《夢遊病の女》と、11月のロッシーニ《ウィリアム・テル》の二つ(ともに新制作)が、同劇場の歴史に残るであろう重要公演となった。
《夢遊病の女》は、イタリア・オペラの主要作曲家の中で同劇場でこれまで取り上げられていなかったベッリーニを、第一人者マウリツィオ・ベニーニの指揮と一流キャストで上演し好評を博した。続く、ロッシーニ最後のオペラである超大作《ウィリアム・テル》は、世界的な演出家ヤニス・コッコスによる新演出と、大野和士・オペラ芸術監督の指揮で上演。新国立劇場の誇る合唱団がめざましい歌唱を聴かせただけでなく、難役アルノルドを演じたルネ・バルベラが最高の歌で聴衆を沸かせ、題名役のゲジム・ミシュケタ、マティルドのオルガ・ペレチャッコほかの配役も的を射たものだった。演奏はどちらも東京フィルハーモニー交響楽団。
また今年特に重要だったのは、2024年度 全国共同制作オペラ《ラ・ボエーム》だろう。プッチーニ没後100年にもふさわしい演目だ。自身が宣言した引退前の最後のオペラを艶やかに指揮した井上道義、伝統美にファンタジーを加味した森山開次の演出、外国からの歌手を含むキャストも理想的だった。9月から11月にかけて東京、名取、京都、兵庫、熊本、金沢、川崎の7都市で上演し、NHKでテレビ放映もされた。
来日オペラでは英国ロイヤル・オペラが6月に神奈川と東京で、《リゴレット》と《トゥーランドット》を上演。23年という長きにわたって音楽監督を務めたアントニオ・パッパーノ退任前の最後のツアーであり、両演目ともに集中力のある名演を繰り広げた。キャストでは《リゴレット》に出演したジルダ役のネイディーン・シエラの歌と演技が忘れ難い。
東京二期会は9月の《コジ・ファン・トゥッテ》(新制作)で歌手たちの活躍とロラン・ペリーの演出で好評を博した後、2022年2月に予定されるもコロナ禍の影響で中止となっていたペーター・コンヴィチュニー新演出のR.シュトラウス《影のない女》を10月に上演。東京二期会でこれまで数多くの作品を演出してきたコンヴィチュニーは今回、台本の時代やストーリーを読み替えるだけでなく、音楽を大胆にカットし、場面の順番を入れ替えた。演劇界では常用される手法とはいえ、オペラの観客は(特にR.シュトラウスにおいて)ほとんどがクラシック音楽の愛好者でもあり、初日前にこの事実が報道されるとSNS上で大騒ぎとなって、公演初日には演出家チームへの激しいブーイングと怒号が飛び交った。アレホ・ペレス指揮、東京交響楽団の演奏は評判が良く、出演歌手たちも、筆者は初日組の2回目公演を観たが、全体的に歌の質が非常に高く演技も研ぎ澄まされていた。このプロダクションについては公演後もかなり長い間話題となり、評論家による批評、観客のSNSでの投稿も数多く発信された。
もう一つ、特筆すべきは日生劇場主催、NISSAY OPERA 2024のドニゼッティ《連隊の娘》(新制作)だ。同劇場芸術参与の粟國淳演出による、おもちゃの世界を描いたポップな舞台が楽しく、原田慶太楼指揮の読売日本交響楽団による軽やかな演奏と、初日組のマリーを歌った砂田愛梨をはじめとする歌手たちの活躍によって大評判の公演となった。同じNISSAY OPERAでは、11月に日本オペラ振興会の藤原歌劇団によるドニゼッティの悲劇的なオペラ《ピーア・デ・トロメイ》(新制作)も上演され、この作曲家の幅広い作風に触れられたことも有意義だった。
市民オペラでは、創立51年目の藤沢市民オペラが12月に上演した《魔笛》が大きな成果を残した。キャストはプロのオペラ歌手たちだが、オーケストラと合唱団は市民団体が担っている。伊香修吾の演出は、童子役の子どもらが歌に演技に大活躍するなど見どころが多かった。そして同オペラの芸術監督・園田隆一郎指揮のもと、オーケストラと合唱が活き活きと《魔笛》の世界観を表現していたのが感動的だった。
演奏会形式のオペラは、来日したMETオーケストラが兵庫と東京で上演したバルトーク《青ひげ公の城》で、世界最高のメゾソプラノ、エリーナ・ガランチャがヤニック・ネゼ=セガン指揮の重厚なオーケストラを越えて響く圧倒的な美声を披露。
他にも東京・春・音楽祭におけるマレク・ヤノフスキ指揮のNHK交響楽団《トリスタンとイゾルデ》、セバスティアン・ヴァイグレ指揮の読売日本交響楽団《エレクトラ》、リッカルド・ムーティ指揮の東京春祭オーケストラ《アイーダ》と《アッティラ》(9月のイタリア・オペラ・アカデミー in 東京)の豪華なキャストを迎えた公演があった。そしてチョン・ミョンフン指揮による東京フィルハーモニー交響楽団のヴェルディ・シリーズ《マクベス》も好評を博した。12月にはジョナサン・ノット指揮の東京交響楽団がR.シュトラウス《ばらの騎士》で極上の演奏を聴かせた。
リサイタルでは2月に来日し81歳にしてまったく衰えを感じさせない歌を聴かせたバリトンのレオ・ヌッチが驚異的だった。日本人では11月の中村恵理ソプラノ・リサイタルが、その芸術性の深さで特に印象に残った。
【Profile】
井内美香(いのうち みか)
静岡県沼津市生まれ。音楽ライター、オペラ・キュレーター。学習院大学修士課程とミラノ国立大学で音楽学を学ぶ。ミラノ在住のフリーランスとしてオペラに関する執筆、通訳、来日公演コーディネイトの仕事に20年以上携わる。2012年からは東京在住となり、オペラに関する執筆、取材、講座、司会などの仕事をしている。共著書『200CDアリアで聴くイタリア・オペラ』(立風書房)、『バロック・オペラ その時代と作品』(新国立劇場運営財団 情報センター)、訳書『わが敵マリア・カラス』(新書館)等がある。日本ロッシーニ協会運営委員。