奥志賀高原で白井光子によるマスタークラスを開催
取材・文:かのうよしこ(音楽ライター)
セイジ・オザワ 松本フェスティバル(OMF)では毎年、小澤征爾総監督の理念のひとつでもある若い音楽家の育成に力を注いでおり、歌手とピアニストのための「OMF室内楽勉強会リートデュオ」もその一つだ。2023年、OMFはメゾ・ソプラノの白井光子氏を講師として招き、第6回目となるマスタークラスを開催した。
白井光子氏はリート歌手として世界的な活躍が知られ、ハルトムート・ヘル氏と共に「歌と伴奏」という概念を超えた“リートデュオ”としての活動を行い、また世界各地で「リートデュオ」のマスタークラスを精力的に開催しており、これまで多くの歌手やピアニストがその薫陶を受けてきた。コロナ禍の影響により4年振りのオーディションとなった2023年。国内外から多数の応募があった中から総勢6組の受講生が選ばれ、2023年8月9日から奥志賀高原に集った。
オーディションで選抜されたデュオ6組、奥志賀高原へ集合
オーディションを経て選ばれた受講生は、8月9日から16日まで奥志賀高原でのレッスンを受講、17日と19日に開催されるコンサートにてその成果を披露する。この恵まれた学びに関わる、約1週間にわたる合宿所の滞在費や食事提供、連日のレッスンと個人練習に関わるサポート、そして勉強会の成果を披露するためのコンサート実施等は、OMFが全面的に支援する。
オーディションで選抜された若き6組のデュオの年齢層は20代半ばから30代半ば、性別も国籍も多様だ。日本人の割合が多く4組だったが、そのうち3組はドイツ語圏での学びを経ており、ドイツ語を流暢に話す。自然とコミュニケーションの多くはドイツ語や英語が飛び交う環境となり、まるで国内にいながらにして“本場”へ留学したような雰囲気だ。ドイツ語という言葉で編まれた作品を学ぶに当たって、その言葉を理解し使えることは前提となる──そのことを生活の中で示していくような様子に、原語の語学学習の重要性を改めて痛感することになった。
受講生は講師である白井と初対面である者も多い。到着初日には、自己紹介がてらそれぞれが1曲を披露した。翌日からは朝の9時から18時までみっちりとレッスン時間が取られており、全デュオは毎日1時間のレッスンを受講する。 この勉強会の受講生は、これまでリート演奏について継続的に取り組んできた人たち。 その演奏が、これからどのように変化していくのだろうか。
白井の指導による“大きな変化”が体感出来る、聴講の醍醐味
生徒たちはおのおの用意してきた歌曲を数十曲携え、レッスンに現れる。作品は、シューベルト、シューマン、ブラームス、ヴォルフ、マーラー、フランツ、ツェムリンスキー、R. シュトラウス、グリーク、ヘルマン・ロイター等々、多岐にわたる。白井は「今日は何を持ってきたの?」と聞き、その日その場で生徒から楽譜を渡される。いわば即興的にレッスンが始まるようにも視えるのだが、その指導には当然一切の迷いも見られず、白井の体内に蓄積されたレパートリーの膨大さに、毎日ただ圧倒された。
またこのマスタークラスは、受講生のみならず一般にも開かれる形での公開レッスンであるところが特徴的だ。白井は時として、生徒本人も気付いていないような本質的な課題に気付き、躊躇せずにメスを入れる。そしてそれに生徒が真剣に向き合った時、立ち会っている客席の聴衆が一様に「分かる」レベルで、音が変わる。
受講生の中で最も若いバリトン歌手である坂本樹生は、生まれ持った美声を難なくコントロールした上品な歌声を持ち、ドイツ語の発音も白井から感心されるほどの完成度。しかし“男性的”な楽曲を歌う際に白井が求める重みが伴わず「あなたはまだ若いわね」「この詩の人物の年齢や性別を意識して」等のアドバイスがあった。数日のレッスンの中で、ある時「変わった!」という瞬間がやってきた。白井はその「変化」が起こった瞬間、客席に向かって「今、すごく変わりましたよね!」と語りかけ、大きく破顔した。
レッスン中、客席のリアクションが薄い場合、白井は聴講者に向かって「みなさん『いいね!』とか、『まだまだね』とか、反応してくださいね。受講生たちも助かると思うの」と語りかける場面もあった。白井にコメントを促された聴講している受講生が「今弾いたのは、音が明確にこちらに飛んできた」「先ほどの声とは、キャラクターが全く変わった」等、変化の大きさや驚きを伝える場面も多かった。ともすると、演奏している本人はその場で起こっている変化に自覚が薄いことも多い。 演奏することだけでなく、他者の変化を目の当たりにすることも確実に学びに繋がっている、そう感じさせられるレッスンであった。
楽曲冒頭の2音に15分をかける、「デュオ」へのレッスン
「リート」「歌曲」 のレッスンというと、一般的には「声楽」中心のレッスンを想起してしまうが、期間中を通して白井からピアニストへの指導は、単純に時間という面から見ても非常に量が多く、多くのピアニストがその“洗礼”を受けていた。
本格的なレッスンが始まった2日目、スタートとなる1組目のレッスンでは、ピアニストの海老名遙香が冒頭の2音をどう出すかということについて、「無理して情景をつくろうとしないで」「“こうやりたい”というのを律して」「テクニックで“色”を付けようとしないで」等のアドバイスを受け何度も試行錯誤し、実に15分が経過していた。1小節ですら無い、たったの2音だ。