楽曲や詩の理解だけでなく、白井は“物理的”なことにもどんどん言及していく。椅子の高さ、座り方、姿勢、手の形、ピアノという楽器の構造への理解、演奏時に利用する譜面の大きさや版選び、等々。更には、演奏時にどのような表情でいるか、どこに音を飛ばしたいのか具体的に意識する等、「デュオ」として勉強することを受講生に対して求め続けた、白井ならではの指導と感じた。
歌曲の演奏は、全部とは言わないものの、概ね器楽(ピアノ)の演奏からスタートし、しばらくしてから歌手が歌い出す。器楽の演奏部分はともすると「伴奏」と表現されてしまうが、実際に先陣を切って足を踏み出し、空気をつくるのはピアニストなのだ、重要に決まっている。とはいえ、目の前に立っている歌い手を前に15分間、たった2音を弾き直し続けられる受講生たちの胆力と集中力は凄まじい。白井の熱い指導に対して応える演奏家たちが持つ熱意に、心打たれるレッスンが多く繰り広げられていた。
人の演奏や振る舞いを観察させ、自らを考えさせる時間としての「レッスン」
この勉強会では、デュオに対するレッスンとは別の時間に、受講生たちが持った疑問に対して質疑応答する時間が毎日持たれた。しかし質問に対して、白井は一方的な解答で終らせるようなことにはしなかった。他の受講生はどう考えるか、同じように困った時にどのように解決したのかをまず問いかけ、“共助”の時間としていたのが印象的だ。
例えばレッスンの中では「自然にしてください」「一生懸命にならないで」「普通にして」「“自分”を出さないで」「“うたおう”としないで!」「楽譜に書いて無いことを、しようとしないで」等、受講生によってかけられる言葉は違うが、自己表出を律し、譜面や作品を第一に据えて表現をすることをストイックに求める指導が、勉強会の期間を通して大きな柱となっていた。しかし「自然」とは、「自分に戻る」とは、どのような状態をいうのだろう。受講者たちの戸惑いを感じ取った白井は、ある日の夕方、「この点について考える時間を取りましょう」と提案した。
“自分ではない存在”をより良く表現するために、どのように体と意識をコントロールすればいいのか。根源的な、誰もが一度は抱えるであろうこの課題に対して、白井は優れた演奏家としてある一つの“解”を体現しているとも言える。しかしいきなり冒頭から答えを与えるのでは無く、まず受講生が演奏前にどのような意識でいるのか、何を考えているのかを語るように促すことからその時間を始めた。「気持ちを落ち着けるために瞑想している」「何も考えないようにしている」「会場の響きをイメージしている」等の意見が出されたが、誰もが違うことを実践していることが共有されたのが興味深い。
白井はそれらの意見を否定すること無く、自身が行っている「自分に戻る」ということについて必要性やその意義、呼吸や体の意識の持ち方まで詳しく説明を行った。また言語化が難しい身体感覚については、受講生と共に実践しながら伝える時間を持った。白井のこのレッスンは、白井の演奏の“奥義”を垣間見るような時間であったと同時に、演奏家それぞれが“自身のやり方”を探っていくことの必要性を示唆するようなものであったように感じた。
また別の日に行われたのは、デュオの2人が一緒に舞台袖から中央へ歩いてくる、また演奏後に拍手に応え舞台袖に戻っていくという、その一連の振る舞いの“練習”だ。短い時間の中で二人の関係性をいかに“良い感じ”に表現するか。つまり、求められるのは「デュオ」としての自然な振る舞いだ。これまで幾つもの“本番”を経験してきた演奏家たちではあると思うが、その2人ならではの舞台上の歩き方がどんなものか考えるチャンスは、実際には少ないだろう。受講生が他のデュオの様子を見ることも含め、考えるきっかけを多く提供するように考えられた“レッスン”であった。
時代を超え、世代を超えて脈々と受け継がれるドイツ歌曲の学びの本質
かつて白井もリートを学びにドイツに渡った学生のうちの一人だった。往年の名歌手であるシュヴァルツコプフやディスカウに師事していた白井は、レッスン中にその教えをよく語った。特にシュヴァルツコプフの指導は、譜面からその曲を読み解くこと、作曲家の意図を考えることに対してストイックな、非常に厳しいものであったようだが、「私にとっては最高のレッスンだった」と白井は述懐する。そして「先生は自分で探さないといけない。自分を知り、自分に何が足りないのか理解しないと、先生は見つからない」と受講生たちに語っていた。
勉強会も終わりに近づいたある日、シューマン『女の愛と生涯』のレッスンを願い出たデュオがいた。リートを学ぶ者、聴く者、その誰もが知ると言っても過言ではないこの有名なレパートリーについて、数知れない膨大な演奏経験と指導経験がある白井の指導は、他の作品に増して一段と高い熱量を感じるものだった 。非常に緊張感ある1時間の最後、ソプラノ歌手の大梅慶子が「どうしても先生に習いたいと思っていた曲だった。厳しいレッスンになることは分かっていた。有難うございます」と笑顔で頭を下げた。受講生と白井、そのどちらもが時を超えた「教えを受ける側」として考えが共鳴したシーンのように感じ、筆者の記憶に深く印象付けられたレッスンとなった。
合宿形式での6日間のレッスン最終日には、レッスン会場でもあった「森の音楽堂」でリサイタルが行われた。毎日歌うことで響きの馴染んだ“ホーム”での演奏会は、生徒たちにとって現在のベストを聞かせる場として、ゴールでもありスタートでもあるリサイタルとなったのではないだろうか。その後一行は松本市内に移動しコンサートを開催、OMF全体のオープニング公演として多くの来場者を迎えてその成果を披露した。
世界的演奏家によるレッスンは、若く将来有望な演奏家たちの成長を花開かせるだけでなく、“聴き手の耳を開かせる”レッスンでもある。OMFでは今後も、集中した学びの場を引き続き提供していきたいとのこと。若い演奏家には、今後の受講チャンスを是非逃さないで欲しい。またコンサートを楽しみにフェスティバルへ参加したファンの方々も、一般聴講が可能な勉強会開催の際には、会場に足を運んでみて欲しい。“耳が開かれる”喜びを、きっと経験出来るはずだ。
クレジットのない写真は筆者撮影
【Information】
2024セイジ・オザワ 松本フェスティバル
OMF室内楽勉強会 〜木管アンサンブル〜
2024.8/1(木)〜8/9(金)
長野県奥志賀高原:奥志賀高原ホテル「森の音楽堂」
長野県松本市:会場後日発表
◎内容
1)木管八重奏のレッスン
2)発表会2公演(8/7 奥志賀高原、8/9 松本市)
◎講師
オーボエ:宮本文昭
クラリネット:山本正治
ファゴット:吉田將
ホルン:猶井正幸
(オーディション応募はすでに締め切られています)
セイジ・オザワ 松本フェスティバル
https://www.ozawa-festival.com