柴田俊幸のCROSS TALK 〜古楽とその先と〜
Vol.10 クリスティアン・ベザイデンホウト(フォルテピアノ/チェンバロ)[後編]

今回のゲストは、日本でもおなじみのフォルテピアノ奏者、クリスティアン・ベザイデンホウトさん。南アフリカ生まれ、オーストラリア育ちという彼ですが、現在はフライブルク・バロック・オーケストラの芸術監督やイングリッシュ・コンサートの首席客演指揮者を務めるなど、指揮者としても大活躍しています。5月に来日した折、神戸市内のホテルでお話をうかがいました。今回は、古楽界の現状について極めて率直に語ってくれた前編に続く、後編です。

柴田俊幸(T) さっきから古楽における音楽教育のマイナス面ばかり話していますが、可能性とか潜在性について、話しませんか?笑

クリスティアン・ベザイデンホウト(K) うーん、本当にわからないんだ……。

T マジかー(涙)

K というか、こうした質問を答えるのに、私は適切な人間ではないんだよ。学校の古楽の学位プログラムの構成全体が、本当にその努力に見合ったものなのかどうか、私にはよく判断できないんだ。フォルテピアノを弾きたいなら、それは自分で決めることだと思う。数年間、部屋に閉じこもるしかない。先輩たちから良いアドバイスをもらうことはとても大切なことだけど、それが学校の教育プログラムの中で可能かというと、なかなか難しい。

T 一方で、ヴァイオリニストやピアニスト、フルートティストのような モダン楽器のみを演奏する人が、それぞれの古楽器を非常に過剰に、時には攻撃的に演奏しているのを見かけることもあります。そういう人たちには、何らかの手ほどきが必要なんじゃないかな、と私個人は思います。実際に、有名なピアニストがフォルテピアノを壊したという話もありましたし。もし、あなたが音楽院でフォルテピアノの生徒にマスタークラスをするとしたら、どういうことを教えますか?

K 正直なところ、大学でフォルテピアノを専攻している学生たちを見ていて感じたのは、ほとんどの生徒は楽器を上手に弾く方法を十分に教わっていない、ということ。多くの場合、彼らはとても深く音楽を理解していて、広いレパートリーに興味を持ち、複数の楽器を演奏し、歴史的また心理学的な観点からもよく勉強している。でも、楽器をうまく扱えないことが多いんだよ。

T 技術的に?

K そう、技術的にね。だから95%くらいの確率で、私は生徒と一緒に座って基本に戻り、音を鳴らすことやペダリングなどあらゆるテクニックを見つける手助けをしなければならない。それはある意味とても論理的な話で、情熱や解釈とは無縁なこと。歴史的鍵盤楽器の指導の理想として、コツコツと技術を積み上げるジュリアード式のメソッドを否定する傾向があるよね。全ての音を間違いなく弾く完璧さ、それらが古楽の世界には欠けている。なぜなら、古楽の人にとって、それらは邪悪な現代世界を象徴しているからだ。そうした流儀のカルト、それもある意味では正しいけれど、実は重要なことだと思うんだよ。
 フォルテピアノを初めて弾く時は、恐る恐るだよね。でも、ただ「音」を見つけ出してあげるだけでいい

T 自分の音じゃなくて楽器の持っている音ですね。

K そう。美しさと実在感(リアリティ)を持った音を出す。誠実さ、とも言えるかも。フォルテピアノにしかないその音を見つけるのを手助けする必要がある。そういう意味で、私がイーストマン音楽院で徹底的に技術を身につけたことは、その後の手助けになった。非常に幸運だったのかも。

T あなたにとって、モダンピアノとヒストリカルピアノの演奏の大きな違いは何ですか? 何人かの同僚が物理的なことについて教えてくれたんだけど、例えば手首を動かさないとか…。

K まず、フォルテピアノという楽器にどれだけのエネルギーを注ぐかについて、徹底的に考え直さなければいけないんだよ。現代のピアノでは、物理的に楽器を扱えるようになるためには、非常に重い楽器を演奏するために自分の体をフル活用できるかどうか、が大きなポイント。そのためには身体全体のコントロールが最重要課題とも言える。

 フォルテピアノはそれとは対照的。例えば…ウォッカか何かを作るように、すべてを蒸留しなければならない。信じられないほどピュアで純粋なテクニック。それは結局のところ、さっき言った「楽器から音を引き出す能力」なんだ。こちらから能動的にエネルギーを注ぎ込まないこと。そんなことしても、フォルテピアノは決してそれに反応しない。ハンマーがとても小さくて表現力が豊かなので、鍵盤の一番下を弾かなければならず、どの指もタッチを繊細にコントロールしなければならない。

 私自身もそのせいで何年も手の故障に悩まされてきたし、そういう音を出すためには、膨大な精神集中が必要なんだ。それが私にとって最大の違いかな。楽器から音を引き出すこと。それが私にとって、十分な集中力、純粋さや美しさを備えた音を得る唯一の方法なんだ。そうしないと、音が散ってしまったり、うるさすぎたりする。あるいは、なんというか……「うりゃ!」みたいな感じで、音の焦点が定まらない。

T なんだか、トラヴェルソにも通じるものがあります!

K 私はトラヴェルソも長くやっていたんだ。フルートは本当に難しい。どこに息を当てるのか、未だにわからない。鍵盤楽器の場合は、鍵盤を押すだけだから少し楽だよ(笑)

T まあ、そうは言いますが、一方で、あなたたち鍵盤楽器奏者は、毎回同じ楽器を弾くことはほとんどないですよね?

K たしかに。

T 正直どうですか? 毎回違う人とデートしているようなものですか?(笑)

K ああ〜…それも挑戦のひとつだね、ハハハ!!! それぞれの問題の解決策を見つけるのは楽しいからね。演奏する上でのテクニックの真髄は、瞬時に斬新な解決策を見つけられるかどうかなんだ。特にフォルテピアノでは、そういう能力が要求される。コンサートでは特にそう! ある意味、楽器に裏切られるんだよ(笑)

T 木管楽器もそうですよね。温度でピッチも変わりやすいし、湿度でトーンホールが変わって音程がデコボコしたり。ごまかしが必要になるのが古楽器、といっても過言ではないですね。

K そうそう。ある意味我々が狡猾でなければならない。そうじゃないと、楽器にいたずらされかねない…。ハハハハ。あと、複数の楽器を演奏することは、ある意味、テクニックの柔軟性を高めることにつながる。それができないと、この世界では生き残れないよね

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T イザベル・ファウストとのレコーディングはとても気に入っています。シチリアーノ-ラルゴ ハ短調のビデオがありますよね。とても美しいと思いました。二人とも、モダンの世界から古楽シーンにやってきたのに、ある意味、この言葉を使いたくないけど“オーセンティック”に聞こえるのが不思議です。

K ありがとう。我々はそうありたいと一生懸命取り組んでいるよ。あのCDでイザベルが奏でている音楽は、バッハという音楽で私が聴いた中で最も説得力のあるものだと思ったよ。深みと気高さがある。音はとても美しく、同時にとても情熱的だ。バッハの音楽は親密なんだけど、一方で「論理的」な響きを持つことがあるから、私はいつもそういう音楽を望んでいる。

T 適度に距離を保つ、ということですね。

K そう、距離感。彼女はとても心のこもった演奏をする。

T HIPの人たちは、この「距離」を取りすぎる傾向も持ち合わせています。僕らホーランド・スクールの音楽家は、音楽に感情を込めすぎるのを好まないのも有名な話ですよね。

K 誰と勉強したんだっけ?

T パトリック・ビュークルスに師事しました。

K パトリック!! 彼は一味違うよね。フィリップ・ヘレヴェッヘのオケの! ずいぶん前に一緒に演奏したことがあるよ。

T 知っていてくれて嬉しいです! そう、幸運にも彼の最後の生徒の一人だった。彼はあまり生徒を取らなかったので。でも、この「距離感」について話したのは彼ではなく、彼はどちらかというとやや主観の強い「ストーリーテラー」で。

 バルトルト・クイケンのマスタークラスを受けたとき、この適度な「距離感」を感じました。そして、フランダースやオランダで勉強した多くの音楽家がこの感覚を大事にしているように思います。シギスヴァルトもその一人です。

K そうだね。素材を今までと全く違った方法で提示するというか何というか、とても変わった方法だよ。人を惹きつけるような、人を招き入れるような…。そこには何かがある。でも、若い学生がそれを過度に強要されると厄介だと思う。うまくできるのはベテランのプロだけ。ミケランジェロの銅像のような…。あれを思い浮かべようとするのは、ずっと後になってからだと思う。信じられないほど禅的だし、超瞑想的。

 しかし、シギスヴァルトがそう言ったというのは本当に興味深いね。まぁ、演奏しているときに冷静になるためには、そう言わなければならないっていうのもある。

 ただ、バッハというのは本当に厄介だよ。18世紀初頭の音楽や17世紀の音楽なら問題なく、超大作ハリウッド映画のような超情熱的な演奏ができる。でも、バッハとなると…。逆にヘンデルは、音楽的コミュニケーションの面ではバッハほど難しくはないよ。

T それはきっと、19世紀の学者たちがバッハを5番目のエヴァンゲリストとして、神と同じように崇めようとしたことと関係があると思うんですが…。

K 御名答! 先日、マタイ受難曲について同僚と勉強したんだ。「バッハは自分の仕事をしただけだ。芸術も栄光も自己意識も、この音楽にはまったく関係ない」ってその人には言われたんだけど…。
 私はそれが本当だとは信じられなくてね(笑)。バッハは自分自身について強い考えを持っているからだと思う。彼はこのような天才的な音楽を書いている自身=事実と闘っているように感じるんだ。自分のことはどうでもよくて、カンタータを書くことで、ただ世間に奉仕しているはずなのに、自分のことも気にしている。「マタイ受難曲」が良い例。そこにはパーソナリティが存在する。言葉にならないぐらいの名作だよね。

T そういえば、マタイ受難を指揮したと聞きました。どうでしたか?

K 私自身は、「チェンバロを弾くことで、この曲がより情熱的なものになる」、「チェンバロが必要不可欠である」という考えにこだわっている。チェンバロ奏者がいるのが恥ずかしいような演奏にはしたくないと強く思う。最近、オルガンのみで演奏することで、なんだか「消毒液」をかけたような神聖な演奏を求める傾向があるよね。バッハが立ち上がって楽譜を丸めて指揮したと伝えられているように、私も、チェンバロの椅子に座った状態で全体を指揮して、煮えたぎるような演奏を目指したんだ。

 あと、この受難曲の通奏低音のパートは、我々が知っているバッハの音楽の中でも、最も濃厚で、最も入り組んでいるものだよね。BGMとして数字で示された音符だけを弾いているような演奏ではダメなんだ。

 この受難曲を最後まで聴くと、自分の中で何かが始まり、変容が起こる。まるでオペラのように。バッハは自分の音楽にこの化学的要素を取り入れたんだよ。

T バッハがオペラを書かなかったことがとても残念です。

K そうだね!

T でも、バッハの書いたイタリア語のカンタータには、時々オープン7度の和音が入っていて、それがハンブルクやドレスデンで演奏されていたオペラみたいに聴こえます。

K バッハはオペラを書くのにふさわしいセンスを持っていたのに、書けなかった。 彼にとっては、オペラというものがちょっと“ハリウッド的”すぎるのかもしれない。でも、特に一部のカンタータでは、彼がオペラに近づいているのが面白い。情景的、絵画的で素晴らしい。

T オーケストラを指揮するとき、主たる楽器が解釈に非常に大きな影響を与える可能性があります。あなたは鍵盤楽器奏者として指揮をしますか? それともまったく別の人ですか?

K 私の経験では、鍵盤楽器の感覚でオーケストラを指揮すると、グループの音に悪影響を与えることがある。非常にカット&ドライで完璧なんだけど、ちょっと魔力や雰囲気に欠けてしまう……。特にレガートの面で顕著かな。いつもそうだとは限らないけど、私の好みからすると少しぎこちなさすぎる。

 ウィリアム・クリスティのような人は、抒情的な語り口の音楽を得意としているよね。常にそういう指示を出している。個人的には、その中間がいいと思う。実を言うと、私が指揮をするときは、私自身も常に歌ってるんだよね。レガートとコントロールの効いた音を実現したいから。

T では、鍵盤楽器でレガートを表現するにはどうしたらいいのでしょうか?

K それが問題なんだよ。手品のようなもので、自分の持っているすべての道具やトリックを使って、「つながっている」と思わせる技術が必要なんだ。ペダルや的確な指づかいなどなど。そういえば、多くの人はペダリングに怯えてるよね。ペダリングだけでは必ずしもレガートにはならないけど、レガートを誘発させるための道具ではある。

 私の場合、レガートを会得する唯一の方法は、チェンバロの前に座って、例えばクープランのプレリュードを弾くことだ。一音一音、次の音へのつながりを確認し、レガートをかけて、指を次々と上げていく。それを一年中続ける。そして、その感覚をピアノに持ち帰ると、目を見開くほど自分自身の演奏法に大きな影響があることを感じるはずだよ。

T チェンバロという鍵盤楽器で限界を感じることはありますか?

K 20年前に同じ質問をされたら、たぶんイエスと答えたと思う。でも今は違う。

5月の来日公演でヴァイオリンの平崎真弓さんと

T 私にも、多くの若い音楽家が「歴史的な楽器でバッハ・モーツァルト・ベートーヴェンを演奏するのはより難しいですか?」と言った質問をします。そうすると、「うーん…」という感じです。イエスでもありノーでもあり、答えるのは難しくないですか?

K そうだね、深い政治的な視点を説明するようなものだね。ゲイかストレートかみたいな。話すのは不可能なんだ。ある時点で、私たちは音の世界に引き込まれる。それは我々の想像力を刺激するからで、実際にはそれ以上に、私たちの情熱を刺激するからだ。身体と心をね。

 生まれて初めて古楽を聴いたときのあの感覚、これまでに聴いたことがなかったような方法で語りかけてくる音楽だったように思う。そして後になって、それらは知性から湧き出てくるものだったことに気がつくんだ。ただ、バッハの時代の楽器を演奏する行為そのものは、そのコンセプト以上に高尚なもの。モダンピアノでバッハを演奏しても、なぜか同じような現象は起こりにくい。モーツァルトだとより難しいね。

 まぁ、でもチェンバロを弾くのは難しい。地球上で最も難しい楽器のひとつだと思う。本当に優れたチェンバロの演奏というのは、創造的な解決策を見いだすセンスに長けている人の場合だと思う。ダイナミクスだけではありません。

T フルートからトラヴェルソに持ち替えたとき、楽器を機能させるための奏者の責任レベルが格段に高まると感じませんか? 大変さは増す一方で、それが楽しみでもあると思うのですが。

K 例えばイザベルはよく言うけど、ガット弦で演奏すること自体がいつも「闘い」ってね。この闘いは決してなくなることはない。でも長い人生の中で、どういうわけか星が光を放ち、物事が突然うまくいく瞬間があるんだ。地球上でこれほど美しいものはないよ。そして、そのわずかな瞬間に価値がある。それ以外の時間は苦労するけど。

 君がいう通り。我々がこの「不完全な楽器」に長い時間を費やしていることをとても奇妙に思っている人がわんさかいるのも知っている。でも、我々にとっては、これが本当の喜びだよね。

取材協力:アレグロミュージック

クリスティアン・ベザイデンホウト 出演
クリスティアン・ベザイデンホウト チェンバロ・リサイタル
2023.10/14(土)14:00 兵庫県立芸術文化センター神戸女学院小ホール

柴田俊幸 出演
クラシックキャラバン 煌めくガラ・コンサート 〜歌の翼に〜 歌でつながる世界の旅
11/23(木・祝)16:00 高松/穴吹学園ホール(旧 高松テルサ)
問:テレビマンユニオン音楽事業部 03-6418-8617


クリスティアン・ベザイデンホウト
Kristian Bezuidenhout, fortepiano/harpsichord/conductor

© Marco Borggreve

いまもっとも注目されるエキサイティングな鍵盤楽器奏者。フォルテピアノの名手であるが、チェンバロ、モダンピアノにも精通している。21歳でブルージュ国際古楽コンクール、フォルテピアノ部門で第1位と聴衆賞という2重の栄誉に輝く。フライブルク・バロック・オーケストラ、ロイヤル・コンセルトヘボウ管、シャンゼリゼ管など主要オーケストラに招かれ、ときにはディレクターとしての役割も担う。フランス・ブリュッヘン、クリストファー・ホグウッド、エリオット・ガーディナーなど著名な指揮者と、ソリストではアマンディーヌ・ベイエ、ジュリアーノ・カルミニョーラ、イザベル・ファウスト等と共演。レコーディングは2009年からハルモニア・ムンディと長期契約を結びモーツァルトの鍵盤楽器作品全9集をはじめ多くのCDがリリースされ、エディソン賞、ドイツ・レコード批評家賞、エコー・クラシック賞など数多く受賞。最新ディスクはフライブルク・バロック・オーケストラとの『モーツァルト:ピアノ協奏曲集』。現在、フライブルク・バロック・オーケストラ芸術監督、イングリッシュ・コンサート首席客演指揮者としても活動している。


柴田俊幸
Toshiyuki Shibata, flute/flauto traverso

© Hiroshi Noguchi

フルート、フラウト・トラヴェルソ奏者。大阪大学外国語学部中退。ニューヨーク州立大学卒業。アントワープ王立音楽院修士課程、ゲント王立音楽院上級修士課程を修了。ブリュッセル・フィルハーモニック、ベルギー室内管弦楽団などで研鑽を積んだ後、古楽の世界に転身。ラ・プティット・バンド、イル・フォンダメント、ヴォクス・ルミニスなど古楽器アンサンブルに参加し欧州各地で演奏。2019年にはB’Rockオーケストラのソリストとして日本ツアーを行った。ユトレヒト古楽祭、バッハ・アカデミー・ブルージュ音楽祭などにソリストとして参加。アントワープ王立音楽院音楽図書館、フランダース音楽研究所にて研究員として勤務した。たかまつ国際古楽祭芸術監督。 『音楽の友』『パイパーズ』『THE FLUTE』Webマガジン『ONTOMO』などに寄稿。
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