フアン・ディエゴ・フローレス(テノール)| いま聴いておきたい歌手たち 第1回

text:香原斗志(オペラ評論家)

C)Manfred-Baumann

いまも維持される超人的技巧とエレガンス

オペラは奥が深い。総合芸術だから音楽にとどまらず、色恋沙汰の料理の仕方とか、舞台装置のでき具合だとか、幅広く興味をそそられる。とはいっても、「セリフが歌われる音楽劇」である以上、舞台や演奏に満足できるかどうかは、とどのつまり歌手次第である。

天賦の楽器、すなわち恵まれた肉体を磨きあげ、鍛錬を重ねた歌手の声は、それ自体に魅了される。かつて三大テノールが世界的ブームを呼び起こしたのもそのためで、オペラ道楽の原点は、よい歌手との出会いだといえる。ただし一筋縄にはいかない。オペラは時代や作品によって求められる声も歌唱テクニックも異なり、クルマに喩えるなら、フェラーリでオフロードを走っても楽しくないし、壊れてしまう。

肝心なのは、魅力的な歌手と出会い、その持ち味を知り、それが引き出されるのを楽しむことで、この連載が一つの道標になればと思う。日本では無名の歌手も積極的に紹介していくが、初回はあえて大歌手を取り上げる。ペルー生まれのテノール、フアン・ディエゴ・フローレスである。

直近では、メトロポリタン歌劇場でヴェルディ《ラ・トラヴィアータ(椿姫)》のアルフレードを歌ったのを、ライブビューイングで観た人もいるだろう。スタイリッシュでノーブルな歌唱だったが、実はかつてのフローレスは、「アルフレードは音域が低いから歌わない」と明言していた。私も歌わないほうがよいと思っていた。この歌手の持ち味は、細かいパッセージを敏捷に歌うアジリタの抜きん出たテクニックや、エレガントなフレージング、洗練された優雅な響きなどにある。中音域での力強いレガートを求められるアルフレードを歌えば、彼の美点が損なわれかねないからだ。

フローレスが歌うのを私が初めて聴いたのは1998年、フィレンツェのペルゴラ劇場におけるロッシーニ《オリー伯爵》のタイトルロールだった。すばやく精確なアジリタ(高音域の細かな音型を俊敏に歌う技法)に仰天し、以後、ほぼ毎年聴いてきたが、聴くたびにアジリタの精度が上がり、フレージングは洗練度を高め、表現にやわらかさが加わり、超高音は力強さを増していた。常に進化している歌手など、そういるものでない。そのストイックな努力のあととシャープな歌唱表現に、同じ1973年生まれのイチローの姿を重ねたものだ。

そのころのフローレスの魅力と才能は、2001年にリッカルド・シャイー指揮で録音された『ロッシーニ・アリア集』に詰まっている。聴くと、こんな難曲をどうしてこうも完璧に歌えるのかと唸らされ、単にすぐれた歌手であるにとどまらず、彼にしか表現できないこの多さに気づかされる。この方向における頂点の一つが、ペーザロのロッシーニ・オペラ・フェスティヴァル(ROF)で2004年に歌った《マティルデ・ディ・シャブラン》のコッラディーノだろう。スキーのモーグルで山頂から麓まで駆け降りるくらいアジリタと超高音が頻出するこの役を完璧に歌い、カーテンコールが30分は続いた。このときの録音は全曲盤CDになっている。

そんなフローレスもアラフィフに近づいたころから中音域が充実し、ドニゼッティ《ランメルモールのルチア》のエドガルドやマスネ《ウェルテル》のタイトルロールなど、力強い役をレパートリーに加える一方、ロッシーニの難役を歌う機会が減った。その方向の先にアルフレードもある。アジリタ満載のロッシーニの難役は、もう以前のようには歌えないのではないか。そう思うと残念だったが、幸い杞憂だった。

昨夏ROFで聴いた《リッチャルドとゾライデ》のリッチャルド役。指揮のジャコモ・サグリパンティは、「こんな難役を歌えるテノールは世界に1人か2人いるかどうか」と語ったが、フローレスは全盛期と変わらず、優雅に、柔軟に、そして完璧に歌いきったのだ。

たしかに、モーグルまがいのアジリタの歌いすぎも声によくない。フローレスはそれを理解したうえで、ドラマティックなレパートリーを増やしつつも声の使い方を工夫し、自身の美点を守っていた。背後には、強い意志に貫かれた節制と鍛錬があるはずで、フローレスがいまもフローレスなのは、生き方の現れというほかない。レパートリーが増え、むしろパワーアップした稀有な歌唱は、今年12月10日と14日に東京で開催されるコンサートでも確認できる。


Profile
香原斗志 (Toshi Kahara)

オペラ評論家、音楽評論家。オペラを中心にクラシック音楽全般について音楽専門誌や新聞、公演プログラム、研究紀要などに原稿を執筆。声についての正確な分析と解説に定評がある。著書に『イタリアを旅する会話』(三修社)、共著に『イタリア文化事典』(丸善出版)。新刊『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)が好評発売中。