エフゲニー・キーシン トリビュート・リサイタル

2023 高坂はる香のピアノコンクール追っかけ日記 from テルアビブ 7

text:高坂はる香

 ファイナル期間中の3月28日、エフゲニー・キーシンさんによる、ルービンシュタイン・コンクールとアルトゥール・ルービンシュタインへのトリビュート・リサイタルが行われました。

Evgeny Kissin

 プログラムには、キーシンさんのこのような言葉が寄せられていました。
「ルービンシュタインは、その芸術が私の心にとても近い偉大なピアニストとして、また人間性の優れた人物として、ずっと私のヒーローの一人です。彼は真の人であり、ユダヤ人であることを誇りにして、イスラエルを支援した人でもありました。
 私自身はどんなコンクールにも参加したことはありませんが、ルービンシュタイン・コンクールとは長い関係性があります。創設者とは良い友人で、世界のあちこちで時間を共に過ごしました。
 ルービンシュタイン・コンクールがこうして長く続き繁栄しているのはすばらしいことです。そのトリビュートとしてリサイタルができることを嬉しく思います」

 モスクワのユダヤ系の家庭に生まれ、2013年にイスラエル国籍を取得しているキーシンさんにとって、ルービンシュタインは音楽家としてだけでなく、人間としても近いものを感じる存在なのでしょう。

 キーシンさんのリサイタルの会場となったのは、これからファイナルのグランド・コンチェルトの舞台となるCharles Bronfman auditorium。とても広いコンサートホールです。

Charles Bronfman auditorium ©︎Haruka Kosaka

 テルアビブのコンサートでは常ですが、時間になっても客席が一向に落ち着かずザワザワしているなか、突然ステージに現れたキーシンさん。時間なのだから当然なのだけれど、このざわつきのなかスタスタと出てきたので、なぜか突然感があります。

Bach Chromatic Fantasia and Fugue
Mozart Sonata No. 9 in D Major K.311
Chopin Polonaise in F-sharp Minor, Op 44
Rachmaninov Lilacs
Prelude op. 32 No. 8 in A Minor
Prelude op. 23 No. 10 in G Flat Major
5 Etudes-Tableaux op. 39 Nos. 1, 2, 4, 5, and 9

 冒頭は、確かなタッチでしっかりと歩みを進めていくように奏された、J.S.バッハの「半音階的幻想曲とフーガ」。
 そこからモーツァルトのピアノ・ソナタ第9番 K.311へ。力の入った音も柔らかく、織り混ぜられる鋭い音色がアクセントとなって、愛らしいおしゃべりのよう。フレーズごとに異なる表情を感じられます。
 このホールはピアノソロを聴くには広く、響きも少ないのですが、それでもこれほどの味のある音だと、楽しさがしっかりと伝わってきます。
 そしてショパンのポロネーズ第5番 Op.44へ。なにかの胎動のような聴いたことのない感触の音で始まったところから、一気に力を得て、解放していきます。誰しもの心の中に眠る強さを音楽で表現しているかのようでもある。
 戦う姿はときにクールに見えないかもしれないけど、真の願いや衝動から起きることなら美しいのだ、と言ってくれているように感じました。この演奏はずっと記憶に残ると思います。

 そして後半はラフマニノフ。「リラの花」、プレリュード Op.32-8、Op.23-10、「絵画的練習曲」op. 39から第1番、第2番、第4番、第5番、第9番が続けて演奏されました。
 各曲で、時に柔らかく濃密に歌い、時に悲しみに満ちた声を出し、気持ちのおもむくままに踊るような音楽が展開します。人間の営みのさまざまな情景が、翳りのある色彩とともに浮かびあがりました。この日のキーシンさんのフォルテは、深く沈んでいくようでありながら全方位に広がっていく、魅惑の音でした。

 ところで今回、キーシンさんはアンコールを2曲演奏しました。
 日本のリサイタルだとアンコールに4曲くらい弾いてくれることはよくあって、以前、多いときだと9曲も弾くこともありました。ですが、ここでは2曲であっさり終了(普通のピアニストならごく自然なことですが)。
 というのも、これはコンクール期間中から感じていたことですが、テルアビブのお客さん、熱狂的な反応をするわりに、わりとあっさり拍手をやめるのです。今日も二度のアンコールのあとキーシンさんが舞台袖に入った瞬間、ぴたりと拍手がおさまりました。

 あとでコンクールのスタッフの子に、「キーシンさんはいつもたくさんアンコールを弾くイメージなのに今日は少なかった」と言ったら、「うそでしょ!? 私2曲でも、アンコール2曲も弾いてる!!って思ったのに」とのこと。8曲とか9曲とか弾く時もあるといったら、本当にびっくりしていました。
 イスラエルでは、アンコールは短めで切り上げるのが暗黙の了解なのでしょうか。ニコリともしないままアンコールをたくさん弾いてくれることで有名なグリゴリー・ソコロフなんかも、イスラエルで弾く時は少なくなるのでしょうか。これは少し聞きこみをしてみなくては。
 国が変わると、コンサートの習慣も違うものなのですね。

©︎Haruka Kosaka

高坂はる香 Haruka Kosaka
大学院でインドのスラムの自立支援プロジェクトを研究。その後、2005年からピアノ専門誌の編集者として国内外でピアニストの取材を行なう。2011年よりフリーランスで活動。雑誌やCDブックレット、コンクール公式サイトやWeb媒体で記事を執筆。また、ポーランド、ロシア、アメリカなどで国際ピアノコンクールの現地取材を行い、ウェブサイトなどで現地レポートを配信している。
現在も定期的にインドを訪れ、西洋クラシック音楽とインドを結びつけたプロジェクトを計画中。
著書に「キンノヒマワリ ピアニスト中村紘子の記憶」(集英社刊)。
HP「ピアノの惑星ジャーナル」http://www.piano-planet.com/