コロナ禍も3年目、ぶらあぼ編集部では多くの音楽家から吹奏楽部の苦難の状況を耳にしてきました。そこで吹奏楽と言えばこの方、吹奏楽作家のオザワ部長に登場いただき吹奏楽部を応援する企画を始めます。まだマスクが取れない日々ですが、音楽へひたむきな情熱を燃やす若者の姿は、見ている私たちも元気にしてくれます。
●vol.1 さいたま市立浦和高等学校 吹奏楽部
●vol.2 茨城県立境高等学校 吹奏楽部
●vol.3 日本航空高等学校 吹奏楽団
●vol.4 東海大学菅生高等学校 吹奏楽部
●vol.5 尼崎市立尼崎双星高等学校 吹奏楽部
●vol.6 秋田県立秋田南高等学校 吹奏楽部
●vol.7 千葉県立国府台高等学校 吹奏楽部
●vol.8 高校生による夢の吹奏楽コンサート
●vol.9 和歌山県立星林高等学校吹奏楽部
●vol.10 日本航空高等学校 吹奏楽団
●vol.11 日本ウェルネス高等学校 吹奏楽部
●vol.12 島根県立出雲商業高等学校 吹奏楽部
●vol.13 出雲北陵高等学校 吹奏楽部
●vol.14 柏市立柏高等学校 吹奏楽部
●vol.15 横浜市立保土ケ谷中学校 吹奏楽部
●vol.16 北海道札幌国際情報高校 吹奏楽部
●vol.17 駒澤大学附属苫小牧高等学校 吹奏楽局
●vol.18 船橋市立船橋高等学校 吹奏楽部
●vol.19 第51回マーチングバンド全国大会
●vol.20 生駒市立生駒中学校 吹奏楽部
●vol.21 京都橘高等学校吹奏楽部
●vol.22 洛南高等学校 吹奏楽部
●vol.23 スペシャル対談 上野耕平&児玉隼人
●vol.24 沖縄県立小禄高等学校 吹奏楽部
●vol.25 佐賀学園高等学校 吹奏楽部
●vol.26 中村明夫(長崎短期大学保育学科准教授)
●vol.27 石川県立金沢桜丘高等学校 吹奏楽部
●vol.28 第72回全日本吹奏楽コンクール・高等学校の部レポート
取材・文・写真:オザワ部長(吹奏楽作家)
2022年9月10日、東京都吹奏楽コンクール(都大会)・高等学校の部が開催された。
全日本吹奏楽コンクール(全国大会)は「吹奏楽の甲子園」とも呼ばれる。日本中の吹奏楽部員が憧れるそのステージに出場する代表2校を選ぶのが都大会だ。
予選を突破してきた全12校が出場する中、最後に登場したのは東海大学菅生高校吹奏楽部だった。顧問の加島(かじま)貞夫先生の指揮で、自由曲であるフィリップ・スパーク作曲《宇宙の音楽》を奏でる。
演奏するメンバーは55人。打楽器パートは6人中5人が3年生だった。
パートリーダーの岩波楓、奥村凛、河原由佳、鈴野花季(はるき)、そして、唯一の男子で部長も務める桶田咲月(おけださつき)。
いや、もうひとり。観客からは見えないけれど、静かにそのステージを見守っている“打楽器6人目の3年生”がいた。
先生と部員だけが感じることができる大切な仲間が……。
コロナ禍が襲来した2020年。6月になってようやく学校や部活が始動した。東海大菅生の1年生として吹奏楽部に正式に入った咲月たちは、川内春輝(はるき)という同い年の少年に出会った。
春輝はニット帽をかぶり、体型は少し華奢だった。5人は「病気をしたのかな?」と思ったものの、同期の打楽器パートが6人いることを喜んだ。
それぞれ別の中学校から進学してきたから、最初はすぐに打ち解けられなかった。
「みんなで練習曲を初見でやってみよっか」
咲月の提案で、簡単な練習曲の楽譜を6人で演奏した。
楽器ではなく練習用のゴムのパッドを叩くだけだから、気楽に演奏できた。リズムを合わせてバチを振るうちに、少しずつみんなの心が通じ合っていくのを感じた。
「恋バナでもしよっか。ねぇ、川内くんの初恋は?」
パッドを叩きながら凛が言った。
「え……っと、小学校のとき。でも、好きなだけで、告白とか何もできなかった……」
春輝が少し恥ずかしそうに言うと、ほかの5人は笑顔でヒューヒューと冷やかした。その会話が6人が打ち解けるきっかけになった。
「この6人で引退するまで一緒に頑張っていくんだ」
咲月たちは当然のようにそう思っていた。
だが、楽しい日々は長くは続かなかった。
実は、春輝は深刻な病と戦っていたのだ。
春輝が小脳にできる悪性の腫瘍、髄芽腫(ずいがしゅ)を発症したのは中学に入学したばかりのとき。幸い、手術で腫瘍はすべて摘出でき、退院後は吹奏楽部に入って打楽器パートで大好きな部活を楽しんだ。
ところが、中3で病が再発。小脳の腫瘍は運動を司どる脊髄や呼吸器付近にも広がっていた。
そんなときに出会ったのが東海大菅生の吹奏楽部だった。夏のオープンスクールで父とともにその演奏を聴いた春輝は、即座に「ここに入りたい」と父に伝えた。重厚で温かみのある東海大菅生のサウンドが春輝の心をとらえていた。
入部したころ、春輝は自力で部活に参加できていた。しかし、その後は車椅子を手放せなくなった。そんな春輝を、咲月ら吹奏楽部の仲間やクラスメイトは当たり前のように介助した。
夏の吹奏楽部の合宿にも家族と参加し、秋に行われた定期演奏会にも出演した。体調の良くないときでも、部活にだけ出てくることもあった。
高2になった4月ごろには、部活はおろか、学校にほとんど通学できなくなった。始業式に出席した後は欠席が続いていた。
そのころ、咲月たちは春輝の余命が残りわずかであることを保護者を通じて知らされた。
咲月は衝撃を受けた。親からは「毎回、会うのは最後だというくらいの気持ちで川内くんと接しなさい」と言われた。
「つらそうなそぶりも見せてなかったのに、そんなに深刻だったんだな……」
咲月はこれまでの春輝の姿を思い返した。車椅子を押してあげながら歩くとき、一緒にバチを叩くとき、ともにステージに上がったとき。顔色は良くなかったし、やつれてはいたが、春輝はいつも笑顔だった。瞳には吹奏楽への情熱がきらめいていた。その春輝があと少ししか生きられないなんて……。
花季も信じられない気持ちだった。
「自分のことよりみんなのことを考えて、我慢してたのかも。私たちも、川内くんの病状は心の奥にしまって、会えるときはいままでどおり接していこう」
一方、春輝は自宅療養を続けながら、時折ベッドから体を起こして練習パッドをバチで叩いていた。5月に行われる、コンクールメンバーを選出するオーディションに参加するつもりだったのだ。
春輝の心はいつでも吹奏楽に……東海大菅生の吹奏楽部に向かっていた。
オーディションの日、春輝は学校にやってきた。入院して痛み止めの点滴を打ち、退院後に学校に直行してオーディションを受けた。
病の影響で演奏はうまくできなかった。しかし、咲月たちが「よく頑張ったね!」「すごいよ!」と称えてくれた。
どんな状況でも前向きに練習を続ける春輝の姿は、咲月たちに多くのことを教えてくれた。
春輝と咲月たちが言葉を交わしたのは、それが最後だった。
約1カ月後の2021年6月16日——春輝は星となった。