ショパン・コンクール出場者を育てた名教師たち

文:伊熊よし子

 ショパン国際ピアノコンクール(以下ショパン・コンクール)の記念すべき第1回(1927年)の優勝者はレフ・オボーリン Lev Oborin(1907~1974 ソ連)。正統的で豊かな音楽性を備え、のちにモスクワ音楽院で教鞭を執り、ウラディーミル・アシュケナージ、ミハイル・ヴォスクレセンスキー、ペーター・レーゼル、野島稔をはじめとする多くの優秀なピアニストを育てた。その弟子のひとりであるウラディーミル・アシュケナージ Vladimir Ashkenazy(1937~ ソ連/1955年第2位)は、恩師についてインタビューでこう語った。
「オボーリンはいわゆるロシア・ピアニズムの基本である楽器を大きく鳴らし、豊かな歌を奏で、レガートを大切にするという奏法とは少々異なるタイプで、弱音の美しさが際立っていました。当時はそれが“女々しい演奏だ”と揶揄され、本人はとても悩んでいました。でも、私は豊かな歌心を備えた美しい響きがすばらしいと感じ、これもロシア・ピアニズムのひとつの表現法だと思っていました。私はその美しい響きを受け継ぎたかったのです」

アダム・ハラシェヴィチ Adam Harasiewicz (c) Slawomir Berganski

 そのことば通り、アシュケナージのピアノも伝統に則った正統的で美しい歌心に支えられている。彼が出場した1955年の優勝者はアダム・ハラシェヴィチ Adam Harasiewicz(1932~ ポーランド)。コンクール後はスター的存在となり、国際舞台で活躍した。初来日は1961年。そのリサイタルで演奏されたショパンのマズルカに魅了され、弟子入りを志願したのが中村紘子(1944~2016/1965年第4位)である。
「私は、こんなにも美しくエレガントで、ショパンの魂を代弁しているようなマズルカを聴いたことがなかったの。そこで弟子にしてくださいとお願いしたら、いま自分は教えていないけどいい教師がいるからと、ズビグニェフ・ジェヴィエツキ Zbigniew Drzewiecki(1891〜1971) を紹介してくれたの。すぐにポーランドに飛んで師事しました。当時は日常の食べ物にも困るような状態だったのですが、ジェヴィエツキ夫妻は本当によくしてくれ、ショパンの神髄を伝授してくれました」
 その甲斐があり、中村紘子は入賞に輝いた。彼女は亡くなる直前のインタビューで、「できることならマズルカ全曲録音をしたかったわね」と話していたのが印象に残っている。

 さて、ショパン・コンクールの優勝者&入賞者はコンクール後にみな世界中からショパンの演奏を要求される。だが、それを懸念してしばらくショパンから離れる人も多い。これほど歴史と伝統を誇るコンクールで名前が世に出てショパンを弾き続けると、精神的に困難なことにぶつかることも多いからである。
 マルタ・アルゲリッチ Martha Argerich(1941~ アルゼンチン/1965年第1位)はウィーンに移った時期にフリードリヒ・グルダ Friedrich Gulda(1930〜2000)に師事している。グルダは彼女の演奏を聴くのがとても楽しみだったと述懐している。そして常に録音をとった。
「自分の演奏を客観的に聴く耳を育てたかった。レッスンで、マルタは自由奔放に自分が感じたまま演奏する。その録音を聴き、聴き手にどう聴こえるかを判断してほしかった」

 そんなアルゲリッチは、メンタル的に非常に辛くなると、ニキタ・マガロフ Nikita Magaloff(1912〜1992)を訪ねた。
「ピアニストは孤独な職業なのです。オーケストラと共演したり室内楽もありますが、ほとんどの場合はひとりで何でも解決しなくてはならない。マルタは私のところに来て一緒に演奏する。話もしていきます。すると次第に表情が変わり、元気になって戻っていく」
 マガロフのところには内田光子(1948~ 日本/1970年第2位)もやってくるそうだ。
「ふたりとも一見するととても強い女性に見えます。もちろん、演奏上はもう何も教えることはありません。精神面のケアだけです」
 クリスチャン・ツィメルマン Krystian Zimerman(1956~ ポーランド/1975年第1位)は、カトヴィツェ音楽院でアンジェイ・ヤシンスキ Andrzej Jasiński(1936〜) に師事している。ヤシンスキはショパン・コンクールの審査委員長も務め、クシシュトフ・ヤブウォンスキ Krzysztof Jabłoński(1965~ ポーランド/1985年第3位)もその弟子のひとり。教授法は各々の弟子の個性を尊重し、その良さを存分に伸ばす方法で、伝統的なショパンを伝授する。

 ダン・タイ・ソン Dang Thai Son(1958~ ベトナム/1980年第1位)は、モスクワ音楽院でウラディーミル・ナタンソン Vladimir Natanson(1909〜1994) に師事してロシア・ピアニズムの基礎からショパンにいたるまで幅広く学んだ。
「ナタンソン先生は、ショパンはもちろんですが、いつの日か私がベートーヴェンだけのプログラムで演奏会を開くことが夢だとおっしゃってくれました。数年前にそれが実現でき、恩返しができたと感慨深かったです」
 当初ダン・タイ・ソンの演奏は春の雨のような抒情的かつ繊細さが特徴だったが、ショパン・コンクール後にドミートリ・バシキーロフ Dmitri Bashkirov(1931〜2021) に師事し、からだ作りを一から行い、奏法に大きな変化が見られるようになった。
「ショパン・コンクールの映像で、上半身をぐらぐら揺らして演奏している自分の姿を見て反省したんです。からだを作らないといけないと。バシキーロフ先生はそれを徹底的に指導してくれました。それから規模の大きなロシア作品も弾けるようになったのです」

 ピオトル・パレチニ Piotr Paleczny(1946~ ポーランド/1970年第3位)は、ショパン・コンクールの審査員をはじめ各地の国際コンクールの審査員を務め、ショパン・コンクールの課題曲の選曲にもかかわっている。山本貴志(1983〜 日本/2005年第4位)をはじめ数多くの弟子を育て、現在は反田恭平が師事している。反田は言う。
「最初にパレチニ先生の前でショパンを弾いたら、“うるさい。もっとppで”と言われ、僕としてはすごく弱く弾いているつもりなのに、“もっと抑えて、もっと弱く繊細に、スタッカートもただ切るだけではなくショパンは内省的でノーブルに”と言われ、ロシア留学時代に習った奏法とはまったく逆の音の出し方に驚きました。でも、先生はショパンの神髄を教えてくれるのです」

ピオトル・パレチニ Piotr Paleczny

 そのパレチニは、ポーランドが世界に誇る名ピアニスト、ヤン・エキエル Jan Ekier(1913~2014/1937年第8位)に師事している。エキエルはショパンの研究家として知られ、エキエル版ナショナル・エディションの編集主幹を務めた。やはり偉大なピアニストは、偉大な指導者のコーチングから生まれるのだと実感する。
(国籍はショパン・コンクールに参加した当時の表示に合わせている)