【追悼】マリス・ヤンソンス

Mariss Jansons
1943-2019

 マリス・ヤンソンスは、1943年、ラトヴィアのリガに生まれた。父親は指揮者のアルヴィド・ヤンソンス。アルヴィドは、1950年代から80年代にかけて東京交響楽団に客演して目覚ましい成果をあげたほか、レニングラード・フィルと何度か来日していたので、日本の音楽ファンの間では、マリスは、最初、“アルヴィドの息子”として認識されていた。

 マリスは、レニングラード音楽院で学び、ウィーン音楽大学ではスワロフスキーに師事。1971年のカラヤン国際指揮者コンクールで第2位に入賞した。その後、レニングラード・フィルでムラヴィンスキーのアシスタントとなり、彼から大きな影響を受ける。77年には、ムラヴィンスキー&レニングラード・フィルの来日公演に帯同し、自らも指揮して日本デビューを飾った。まだ34歳だった。86年にもレニングラード・フィルと再来日。このときは、ムラヴィンスキーが来日できなかったため、全公演を指揮した。その一方で、1979年には、オスロ・フィルの首席指揮者に就任。オスロ・フィルとは、1988年、93年、96年に来日している。1997年から2004年までは、ピッツバーグ交響楽団の音楽監督を務めた。1998年の同響の来日公演では、ヤンソンス、クレーメル、マイスキーの3人のラトヴィア出身の音楽家たちによってブラームスの二重協奏曲を演奏。2000年には、アバドとともにベルリン・フィルの日本公演を指揮(このときはショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲第1番でヒラリー・ハーンの日本デビューをサポート)。

 2003年、バイエルン放送交響楽団首席指揮者に就任。2004年からはロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団の首席指揮者も兼務。2004年以降は、二つのオーケストラと交互に、毎年来日していた。2006年にはウィーン・フィルのニューイヤー・コンサートに登場。この頃には、現代を代表する世界的人気指揮者の一人となっていた。2012年のバイエルン放送響との来日公演ではベートーヴェン交響曲全曲演奏を披露。15年にロイヤル・コンセルトヘボウ管を離れ、バイエルン放送響に専念するようになった。

 いうまでもなくショスタコーヴィチやチャイコフスキーなどロシア音楽を得意としていたが、ベートーヴェン、ブラームス、マーラーなどの独墺音楽にも独自の解釈を示した。入念なリハーサルによる緻密な音作りと情熱的なリーダーシップとが一つになった演奏が聴衆を魅了。とりわけ筆者の印象に残っているのは、2005年のバイエルン放送響との来日公演、ストラヴィンスキーの組曲「火の鳥」の終盤での、まさに聴いたことのないような(その後も聴くことがない)音色である。ここまでオーケストラを磨きあげることができるのかと非常に感銘を受けた。晩年は、ますます格調の高さや優美さを志向し、見事なバランス感覚でその音楽作りに一層洗練を増していた。徹底したスコアの読み込みは音への執念を感じさせ、最高のヴィルトゥオジティとアンサンブルを誇るバイエルン放送響と類稀なる一体感を生み出していたのである。
文:山田治生