マキシム・ミロノフ(テノール)| いま聴いておきたい歌手たち 第5回

text:香原斗志(オペラ評論家)

ロッシーニが望んだテノール

ベッリーニの『追憶 LA RICORDANZA』とロッシーニの『これがロッシーニだ! Questo è ROSSINI』マキシム・ミロノフが自主制作したILLIRIAレーベルの『室内歌曲集』がすばらしい。

まず、彼の声のクオリティがピカイチなのだ。最高の羽毛のようにやわらかく、艶があり、官能的な色彩を帯びていて、同時に陰影がある。だから独特の憂愁の響きがたまらない。また伸びやかで、自然に高音に達し、フレージングに気品があり……と、ほめ出したらキリがないほどだ。さらに特筆すべきは、室内歌曲には特に大切な言葉の明瞭さ。ロシア人が歌っているとは到底思えないほどイタリア語が美しく、むしろ、イタリア人より美しいくらいだ。

マキシム・ミロノフ

この柔軟な声を支えるのが抜群の音楽性で、ベッリーニの歌曲もロッシーニの歌曲も、こんな声で歌われるのを待っていたのではないか、とさえ思える。昨年、インタビューした際に、ミロノフはこんなことを言っていた。

「僕がいまロッシーニと対面したら、彼は“では君のためにパートを書こう”と言ってくれて、書き上がったパートは僕にぴったり、ということになったと思うんです。実際、ロッシーニのいくつかのパートは僕のために書かれたかのようで、僕はそれを最高に輝かせることができます」

これらの室内歌曲集には、小さな音符の連なりを敏捷に歌うアジリタなどの装飾歌唱はあまり出てこないけれど、もちろんアジリタもミロノフにとって十八番中の十八番だ。2016年11月には新国立劇場で《セビーリャの理髪師》のアルマヴィーヴァ伯爵を歌い、特に最後の大アリアで電光石火のごときアジリタを聴かせている。

だが、昨年8月、ペーザロのロッシーニ・オペラ・フェスティヴァルで同じ役を歌うのを聴き、さらなる進化に驚かされた。すべての旋律の運びに品位があって、アジリタの切れ味が途轍もなくよいのはもちろん、それまでやや弱かった中低音が厚くなり、安定感が増していた。最近、フアン・ディエゴ・フローレスがロッシーニを歌う機会がめっきり減ってしまったが、「ミロノフがいるからいいか」と思えた。

座右の銘は「かたつむり そろそろ登れ 富士の山」

2005年にペーザロのロッシーニ・アカデミーの発表公演である《ランスへの旅》でリーベンスコフ伯爵役を歌ったのが、ミロノフの世間へのお披露目だったが、本人によれば、意外にもスタートは「3大テノール」だったという。

「1998年夏、パヴァロッティ、ドミンゴ、カレーラスの“3大テノール”がサッカーのW杯前夜にパリで行ったコンサートをテレビで聴いて、彼らの声と、聴衆が歌と声に魅せられているという事実に、魔法にかけられてしまって、それからは昼も夜も彼らの歌に合わせて夢中で歌いました。1997年3月、ロサンゼルス・オペラに出演したとき、芸術監督のドミンゴが僕の楽屋のドアをノックして“調子はどう?”と聞いてきたので、僕は“マエストロ、僕がいつもあなたと一緒に勉強してきたのを知っていますか”と答えると、“覚えてないなあ”とドミンゴ。“いや、あなたは思い出せませんよ”と言ったんですけど、彼ら3人からすばらしい成果が得られたと思っています」

いまの方向に進んだのは、その後、目利きの先生に出会った結果だという。

「ずっと一緒に勉強しているモスクワのディミトリー・ドーヴィン先生が、僕の声が非常に特徴的で稀なテノーレ・ディ・グラツィア(優美なテノール)だと気づいて、特別な教育や訓練が必要だと言われたんです。実際、先生が僕に覚えるように指示した最初のアリアはロッシーニ《アルジェのイタリア女》の〈美しい人を恋い焦がれ Languir per una bella〉で、世界中のどんな先生も、歌を勉強しはじめたばかりの若者に、こんなに難しいアリアを歌わせないでしょう」

それにしても、ミロノフがこうして話しているイタリア語は、イタリア人以上だと思えるくらい美しく、明瞭で、明晰で、しかも内容が知的なのだ。たとえば日本についての理解の深さも、以下のように、ほかの歌手とは段違いである。

「日本では芸術がとても愛されていますが、それは美への愛なのだと思う。日本人は美や調和を愛し、それは仏教をはじめとする数百年来の偉大な文化に由来すると思います」

「国立博物館で長時間、日本の“書”に見入ってしまいました」

「山上の神社に行きました、将軍、徳川家康を祀った神社。美しかった!」

「僕は小林一茶の大ファンです。『かたつむり そろそろ登れ 富士の山』。人生で困難に直面するたびに、僕はこの句を思い出します」

この審美眼と知的な姿勢が、歌とそのまま重なるミロノフ。11月には新国立劇場でドニゼッティの《ドン・パスクワーレ》にエルネスト役で出演する。

Information
新国立劇場《ドン・パスクワーレ》(新制作)

2019.11/9(土)14:00、11/11(月)19:00、11/13(水)14:00、11/16(土)14:00、11/17(日)14:00
新国立劇場 オペラパレス

2019.7/28(日)発売
https://www.nntt.jac.go.jp/opera/donpasquale/


Profile
香原斗志(Toshi Kahara)

オペラ評論家、音楽評論家。オペラを中心にクラシック音楽全般について音楽専門誌や新聞、公演プログラム、研究紀要などに原稿を執筆。声についての正確な分析と解説に定評がある。著書に『イタリアを旅する会話』(三修社)、共著に『イタリア文化事典』(丸善出版)。新刊『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)が好評発売中。