text:香原斗志(オペラ評論家)
歌も姿勢も成長ぶりも「日本人」の枠では語れない
どの歌手も聴くたびに成長していたら、世界中のオペラがたちまちレベルアップするはずだが、現実はそうではない。とはいえ、数少ないが例外もいて、その一人がメッゾソプラノの脇園彩である。この4月26日と27日、シチリア島のパレルモのマッシモ劇場でモーツァルトのオペラ・セリア《イドメネオ》を鑑賞したが、正直、驚嘆させられた。脇園が歌ったのは王子イダマンテ、いわゆるズボン役だが、昨年8月、ペーザロのロッシーニ・オペラ・フェスティヴァル(ROF)で聴いたときとくらべ、一段か二段、確実にレベルが上がっていたのだ。
昨夏、ロッシーニ没後150年の記念年に、ロッシーニ上演の総本山であるROFで《セビーリャの理髪師》のヒロイン、ロジーナに抜擢された脇園。もちろん彼女は期待に応えてくれた。深くから無理なく発せられ、そのためにやわらかい声は、どんな音域でも一定の質感が保たれ、声のラインが美しい。加えて装飾歌唱が冴えわたる。
このとき彼女は、レチタティーヴォを徹底的に読み込んで、一つひとつの意味を掘り下げた結果、「ロジーナが、具体的に肉と骨を伴った一人の人間として見えてきた」と語っていた。「一つ階段を登れた感覚がある」とも。
前年の2017年には、同じROFでロッシーニ《試金石》に出演。そのクラリーチェという役は、脇園にはやや低い音域だったが十分に説得力ある歌唱で、私は拙著『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)に「日本人『脇園彩』は世界のメッゾソプラノになれるか」と書いた。
ところが、そんな彼女も昨年5月、スランプに陥る。ヒロインを歌う大阪国際フェスティバルでのロッシーニ《ラ・チェネレントラ》を前に声帯炎に見舞われ、それでも彼女の名前ありきの公演だったのでキャンセルできず、無理をして歌ったのだ。しかし、海の向こうで一人で道を切り開くようなアーティストは、スランプに陥ってから先が違う。「これまで完璧を求めすぎてダメになる自分がいた。そんな自分も受け入れて、歌えることに感謝したとき、新しい自分が見えてきた」という。結果、同僚に恵まれたこともあり、スランプをバネに素晴らしい歌を聴かせた。
イダマンテで驚異の成長ぶりを示したのは、それから8ヵ月後だ。昨夏も立派な歌だったが、いまの彼女に足りない点にも気づかされた。声がもう少し遠くに飛んでほしい。少し響きが薄い。もっと倍音が増えて響きの厚みが増すといいのに。また、ロジーナには必要ないとしても、現状では力強い表現は難しいかもしれない……。それらがいずれも見事に解消されていたから、驚かされたのだ。
すべての音の支えがより強固になっているから、旋律がピーンと張り詰める。それに声自体が拡大し、倍音が増え、遠くに自然に飛ぶようになっている。なのに、どこにも力みがないどころか、昨夏より無理なく歌っているように聴こえるのだ。声自体が強さを増しているから、メリハリも効く。脇園がオペラ・セリアのドラマティックな表現に、これほど適性があるとは思わなかった。《イドメネオ》では、脇園が最も多くの拍手を浴びていたが、あの歌ならそれは当然である。
進化のきっかけは、一つはマリエッラ・デヴィーアのレッスンを受け、発声の際に口内の空間をより狭くするようにしたことだという。要は、声が通る道が狭くすればブレがなくなり、同時に前に飛ぶようになるわけだ。もう一つは、「オペラ歌手として生きることが私の使命なのだと、本当の意味で確信を持てるようになった」ことだという。「私のような凡人、などと自分を卑下するのをやめました。自分が授かったものについて、好きな点も嫌いな点もひっくるめて感謝するようにしたら、喉が柔らかくなり、歌うのが楽になりました」。
テクニックと精神力の双方を磨きつづけようという意識があるかぎり、脇園が「世界のメッゾソプラノになれる」ことに疑いをはさむ余地はない。新国立劇場の《ドン・ジョヴァンニ》(今年5月)、および《セビーリャの理髪師》(2020年2月)にも、その成果は存分に現れるはずだ。
profile
香原斗志 (Toshi Kahara)
オペラ評論家、音楽評論家。オペラを中心にクラシック音楽全般について音楽専門誌や新聞、公演プログラム、研究紀要などに原稿を執筆。声についての正確な分析と解説に定評がある。著書に『イタリアを旅する会話』(三修社)、共著に『イタリア文化事典』(丸善出版)。新刊『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)が好評発売中。