「予約が取れないテノール」の圧倒的な歌声を存分に浴びる好機
2、3年先までスケジュールがぎっしりと埋まり、あらたな予定を組む余地がほとんどない——。世界でトップを走る一握りの歌手だけが抱えるこの悩みを、いまテノールのステファン・ポップが抱いている。
売れっ子には売れっ子になる理由がある。ポップの場合、その歌声を聴くたびに思うのは、彼こそがパヴァロッティの継承者だ、ということである。高級車のエンジンのように滑らかにふけ上がり、どこまでも伸びる息の長さも、空気を切り裂いて届く声の威力も、たおやかで凛としたフレージングも、あの不世出のテノールのスタイルに近い。体躯や仕草も似ているが、おそらく修得したテクニックに共通点が多いのだろう。
世界に魅力的なテノールは少なからずいるが、有無を言わさぬ圧倒的な声の力で、ポップに並ぶテノールはほかにほとんどいない。
事実、ポップが歌の勉強をはじめたのは、高校入学前に「君は第二のパヴァロッティになれる」といわれたのがきっかけだという。その後も、「パヴァロッティは僕の憧れで、オペラの勉強を開始して最初に観たのが、彼が歌う《ラ・ボエーム》の〈冷たい手を〉で、その後、賞をもらったコンクールで歌ったのもこのアリアでした。次にパヴァロッティを聴いたのが《リゴレット》の〈女心の歌〉。僕もこの役を歌いたいと思いました」。10代後半の思い出を、本人はこう語る。
〈冷たい手を〉は東京・春・音楽祭2024で4月に上演される《ラ・ボエーム》(演奏会形式)で聴けるが、それに続いてサントリーホールで開催される、この一夜かぎりのコンサート(渡邉一正指揮 東京フィル)では、ポップの原点であるこの2曲がともに歌われる。それを聴けば、パヴァロッティの継承者といわれるわけも、世界で引っ張りだこの理由も、たちどころに理解できる。
その特別な声を、ポップは大事に育てている。じつは、2019年に新国立劇場で《ホフマン物語》の表題役を歌う予定が、「芸術上の理由」でキャンセルした。本人に尋ねると、「楽譜を読んで先生にも相談したところ、この役を歌うのはまだ早いと判断した」とのこと。キャンセルは残念だったが、自分の声に負担が大きい役を次々に歌って声をつぶす歌手も多いなか、ポップには知的な英断ができるということだ。2023年に演じた《ドン・カルロ》の表題役も、5年前にはオファーを断って声の成熟を待ち、満を持してのデビューだった。
同年3月に、ボローニャ歌劇場でポップが《ノルマ》のポッリオーネを歌うのを聴いたが、ベルカント・オペラにふさわしいやわらかさと甘さが備わっていた。ピアニッシモが絶品だと本人に伝えると、「そうだろ? 僕にはそれができるんだよ」。すごい声を自在に駆使できるのは、「知的な英断」を重ねつつ声を磨いているからである。このやわらかさは、共演する森麻季との相性のよさにもつながる。
コンサートの最後に歌われる〈誰も寝てはならぬ〉を、ポップほど伸びやかに歌い、最後の高いH(シ)を長く引っ張れる歌手は、ほかにほとんどいない。だが、このカラフ役にポップはデビューしていない。それもまた「知的な英断」である。
文:香原斗志
(ぶらあぼ2024年1月号より)
2024.4/18(木)19:00 サントリーホール
問:MIYAZAWA & Co. info@miy-com.co.jp
https://miy-com.co.jp