孤高の鍵盤奏者が誘う創作の最前線
チェンバロ奏者、マハン・エスファハニは大きな使命を持っている。それはチェンバロを「古楽器」の枠から解き放ち、現代の楽器としての可能性を追求することだ。実際、彼はバッハからギャヴィン・ブライアーズまで56作ものチェンバロ協奏曲——うち12作ほどは自身が委嘱したもの——をレパートリーとしているという。
「20世紀前半にワンダ・ランドフスカやラルフ・カークパトリックがチェンバロを復活させたとき、最初にしたことは新作の委嘱であったことを思い出してほしいのです。チェンバロは古楽で通奏低音を担当することが多い楽器ですが、本来、とても壮大な楽器なのです」
エスファハニは過去の来日においてもリゲティの「ハンガリアン・ロック」やナイマンのチェンバロ協奏曲などを取り上げ、話題を呼んだが、今秋はさらに踏み込んで、2つのオーケストラと2つの現代の協奏曲を演奏する。読売日本交響楽団とはミロスラフ・スルンカのチェンバロ協奏曲「Standstill」の日本初演を、自身チェンバロ奏者でもあるマクシム・エメリャニチェフの指揮で行い(9/5)、山下一史指揮愛知室内オーケストラとは、同楽団のコンポーザー・イン・レジデンスをつとめる権代敦彦の新作「ラクリメ、あるいは5つの涙〜チェンバロとオーケストラのための〜」を世界初演する(8/30)。
「日本で演奏をするのなら、その国の音楽を弾きたいのです——ヨーロッパの音楽を持ってくるだけではなく。もちろんバッハの音楽が偉大であることは言うまでもありませんが、クラシック音楽がグローバルな存在を謳うのなら、真にグローバルなものを目指さなければならないと思うのです。それが私の目標です」
彼自身、さまざまな文化を渡り歩いてきた。イランに生まれ、幼少時に家族と米国ワシントンD.C.に移り、スタンフォード大学を卒業。その後、ヨーロッパに渡り、イタリア、英国を経て、数年前よりプラハに定住、市民権も得た。チェコのチェンバロの名手、ズザナ・ルージチコヴァーの薫陶を受けたこの街を彼は気に入っている。
読響と演奏する協奏曲の作曲家スルンカもチェコの出身。2016年にバイエルン州立歌劇場で初演されたオペラ《南極》(K.ペトレンコ指揮)で一躍注目を浴びた逸材だ。2022年にケルンで初演された「Standstill」は、ソロとしてのチェンバロの音色を極限まで広げつつ、意表を突く仕掛けも施された楽しい作品。
「最初に楽譜を見たときはどう考えてよいのかわからなかったのですが、徐々にその魅力が明らかになりました。基本、この曲は実演を体験しないと意味をなさない曲なのです。すなわちパフォーマンス性に富み、緻密かつダイナミックであり、きっと日本の皆さんにも楽しんでいただけると思います」
一方、エスファハニが権代と知り合ったのは2018年の来日時。たちまち意気投合し、委嘱の話が進んだ。曲はすでに完成し、楽譜は手元に届いているという。「ラクリメ、あるいは5つの涙」というタイトルは、明らかに16/17世紀の英国の作曲家ジョン・ダウランドへのオマージュであろう。
「まだ楽譜を読み込めていないのですが、宗教性とメランコリーが混ざり合った作品という印象を持っています。ダウランドの生きたイングランドは聖と俗の線引きがはっきりしていなかった時代であり、そういった文化的背景が曲にどう表れているのかも興味のあるところですね」
サントリーホール、愛知県芸術劇場コンサートホールという大舞台を得て、いよいよエスファハニの才能が炸裂する!
取材・文:後藤菜穂子
(ぶらあぼ2024年8月号より)
愛知室内オーケストラ 第78回 定期演奏会
2024.8/30(金)18:45 愛知県芸術劇場コンサートホール
問:愛知室内オーケストラ052-211-9895
https://ac-orchestra.com
読売日本交響楽団 第641回 定期演奏会
2024.9/5(木)19:00 サントリーホール
問:読響チケットセンター0570-00-4390
https://yomikyo.or.jp