Aからの眺望 #14
「怪物」の吐く息
—坂本龍一×是枝裕和×坂元裕二

文:青澤隆明

Photo:T.Aosawa

 きのう『怪物』をみてきて、一晩眠ってまだ耳にこびりついているのは、トロンボーンの吐く荒い息だ。それと、颱風の大雨や風の音。聞こえてくるのは、まずはそれだ。坂本龍一の音楽ということにも大きな興味をもって映画館に行ったのだけれど、アルバム『12』のようなピアノの音、『out of noise』やそれに近い響きがしていたのは覚えているものの、それらを掻き消すように記憶を占めているのはトロンボーンの震えである。そこにホルンがばらばらと重なっていたのは、映像でみたから記憶している。抱えきれないゆがみが吐かれ、遠い他者を交わらす。

 是枝裕和監督が坂元裕二の脚本で創り上げたこの映画に相応しいのは、甘美な音楽やキャッチーな主題歌などではなく、違和感を吐き出すような音楽以前の金管の咆哮なのだ。それもおそるおそる探るように吐き出される、整えられていないままの、生ぬるい息の。

 「怪物」というのは、まずは説明のつかない現れをもつ存在の底怖さであり、映画の全体に異和や悪意を生々しく充満させているなにかの気配で、それこそ個々人の内にも外にもいる得体の知れない蠢きであるのだろう。それは暴力に近く、生物的にも社会的にも、個々の人間を翻弄する。必死でなにかを護ろうとすることが他者への攻撃に向かい、人を狂おしいモンスターにすることも避けがたくある。意図せずとも、誰かを容赦なく傷つける。それもまたここでの空恐ろしい主題だ。コントロールがきかないものは、衝動と破壊に傾いていく。

 だからそれは、ほどよく調整された音楽よりも、金管のロングトーンの揺らぎにずっと近い。ふらついて、確保されていない音のままで、たどたどしく、吐き出しの生々しさを放つ。楽器の管を通じて震え出る響きは、内側の底知れぬ情動の発露だろう。激しい雨や荒れ狂う嵐は、外側から押し寄せる暴力の脅威だ。それはつまり、感情であり圧力であり、世間でもある。解決されず、自然と不協和音の容貌をとるしかない。だとすれば、情景に寄り添う音楽もきれいにまとまるものではなく、漂うような素描であるのがふさわしいだろう。「怪物」の気配そのものを直に突きつける気配ではないほうがほどよい調律となるに違いない、広がっていく波紋のように。

 そういえば、私が坂本龍一の映画音楽でたぶんいちばん好きなのは、『トニー滝谷』のピアノで、そのサウンドトラックもよく聴いた。市川準監督が脚本も手がけていて、ここでは坂本のピアノ・ソロ曲が主要なモティーフとして、白い壁の映像とともにシーンを渡し、映画全体を構成している。曲は全篇の主要主題としてストーリーを前へ進めていく。フォームのコンポジションの重要な鍵である。作品全体のカノン主題となっているとみてもいい。有機的なモティーフそのものだ。

 それとは真反対の方向で、『怪物』は坂本龍一の音楽を扱っている、とまでは言えないかもしれないが、少なくとも曲はスクリーンの前面には立たず、環境に溶けるように残響を伝えていく感触だ。さほど存在感を主張してはいないか、少なくとも「怪物」的な不穏さを表立って帯びることはなく、だから音楽室から漏れ出す金管の振動ほどには強くない。もっとも件のシーンは映画全体の結び目でもあるから、それは当然とも言える。

 とはいっても、最後のシーンでの少年たちのやりとりに継いで、エンドロールで坂本龍一のピアノが流れると、会話も光景も「生まれかわり」にまつわるだけに、やはり自ずと象徴的に思え、虚を衝かれたことも確かなのだけれど、私はいまその後に流れていた音楽を歌えない。少年ふたりが鉄柵の向こうへ越えていくラストシーンのほうがよほど印象が強かったからだろうか。ユージン・スミスの「楽園への道」が呼び起こされてくるような。

 ふたりの少年は黒川想矢と柊木陽太が鮮やかに演じきっていたが、それを言い出すなら、田中裕子、永山瑛太、安藤サクラ、中村獅童らの演技もいちいち真に迫っていて、場面ごとの表情がそれぞれ断続的に脳裏に浮かんでくる。音楽のほうはといえば、旋律的にはラストで象徴的に訪れる“Aqua”くらいしか、いますぐには思い出せない。ちょうど「水」は本作の重要なイメージでもある。火ではじまり、水でおさまる映画とみてもいい。ほかにシューベルトの「魔王」も流れたか。坂本龍一の曲は全体に、個人の音楽としてではなく、響きや和声的な広がりとして滲んでいた気がする。映像やドラマの気配の濃密さに、音楽はみえないぶん空気に近く、その緊張に密かに寄り添っていたのだろう。いずれにしても、この映画は一義的な調律をはみ出している。ほどよく馴らされた音律は、集団をなす不穏さのほうにしか広がっていない。

 『怪物』に関しては、サウンドトラックも聴いていないし、映画をいちど観ただけだから、まずは音楽以上に演技や展開に強く引き込まれたということにすぎないのかもしれないけれど、おそらく本作における音楽のありようはそうした位相をとっていて、それで全体に慎ましくも微妙な均衡を保っていたのではないかというふうに思えている。寝覚めのわるい朝に、ぼんやりと昨夜の残響をたぐってみると、ざっとこのようなことになる。

【Profile】
青澤隆明 あおさわ・たかあきら

音楽評論家。1970年東京生まれ、鎌倉に育つ。東京外国語大学英米語学科卒。主な著書に『現代のピアニスト30—アリアと変奏』(ちくま新書)、ヴァレリー・アファナシエフとの『ピアニストは語る』(講談社現代新書)、『ピアニストを生きる—清水和音の思想』(音楽之友社)。