Aからの眺望 #12
未来からやってきたマレ

文:青澤隆明

ジャン=ギアン・ケラス 2022年12月 東京/王子ホール
(c)王子ホール/撮影:藤本史昭

 元日がきて、どこも行かずに机に向かっているのは、きょうのしめきりが2本あるからだった。依頼するほうもするほうなら、引き受けるほうも引き受けるほうだ。でも、楽しいことはやる。ぜんぶやる。私が元日に書くということは、編集するほうは1月2日に作業を上げるということだろう。本気ということだ。ならば、こちらも本気でやるしかない。いちおう書いておくと、いずれも「ぶらあぼ」の関係ではないです。
 年の瀬は他の原稿でいっぱいで、年が明けてからとりかかるはめになった。1本は結局、朝までかかってしまった。冬の夜だから、けっこう冷えこんだ。冬とはそういうものだった。

 マラン・マレを聴いていた。ジャン=ギアン・ケラスとアレクサンドル・タローの2022年夏のレコーディングである。ふたりがまた、愉快なことを仕出かしたのだ。ケラスのチェロは1696年製のジョフレド・カッパ、タローのピアノはヤマハのCFXコンサートグランドで、型番まで記されていたが何年製かはまだ調べていない。
 マラン・マレは1656年に生まれて、1728年に亡くなった。当代きってのヴィオール弾きとして知られた。いまから300年ほど前の話である。ヴィオールという楽器にしてみれば、爛熟と黄昏を迎えた時代だろう。そのいっぽうで、新興のチェロが存在感を増していた。ヴィオールの響きが深い陰翳を含むのは、もちろん夜がまだそういう詩性を帯びていたからだ。なにかしら、優雅な栄華のさなかで、黄昏れていく宿命を愛するような儚さが感じられる。
 そういうのはたぶん私のたんなる先入観にすぎず、現代から想像するならば、長く斜めに延びた夕暮れの光のなかでヴィオールの響きを夢みるのが心地よいというだけのことかもしれない。ただ、黄昏や仄暗さを愛する感覚は、ヴィオールの奥行きにどこかしら宿命的に繋がっていると思える。もちろん、朝の長い光彩のなかに、その響きを広げていくこともできたのではあろうが、いまから当時を想像しようとしていると、なかなかそうはいかない。溜め息とか嘆きとか、そういうものに親しく寄り添うようにみえる。それこそは、新興のチェロの方角からみた、ヴィオラ・ダ・ガンバの背中というものにあたるのかもしれない。
 チェロには、もっと明瞭ではっきりした発語が感じられる。聴衆が拡がっていくというのは、当時もいまも、大抵はそういうことなのではないかとも思う。クラヴサンとフォルテピアノとピアノの関係をみてもそうだ。チェロの明瞭さについては、ジャン=ギアン・ケラスのように優れて現代的な弾き手を得ると、さらに水際立ってくるように感じられる。解像度の高いレンズで暗がりを見通すとどういうことになるか、というふうにまず想像されそうだが、ケラスはケラスで、そっと暗がりに触れる感覚を響きのうえで叶えている。

 さて、マラン・マレはと言えば、こうして遠く未来からやってきたふたりの挑戦を受けながら、それでも彼の愛した情趣と感情、鮮烈で果敢な表現意欲を、臆することなく繰り述べている。というのは逆行したみかたで、ジャン=ギアン・ケラスとアレクサンドル・タローが自分の楽器で、マレの影を追い求めているのだった。
 いま影といったが、それが後ろ姿でなく正面に思えるのは、ヴィオールでこそ活きたはずのマレの表現を模倣するだけでなく、作曲家としての天才と、名演奏家としての即興精神の生命を、ケラスが鋭敏に描出しようと努めているからだ。しかもタローはここでも挑発的だ。
 マレはしかしクラヴサンのための独奏曲を遺さなかった。その理由はよく知らないが、音程を含めて、刹那の響きを自分の手でその瞬間その瞬間に放っていく、ということを愛したのではないか、と私は想像する。バッハの音楽が触知的であるにしても数理的であるという抽象性をもつことからみると、マレのほうがより具象的で、だからこそ、もっと曖昧なものに触れる親しさもある気がする。つまりは、さらに楽器固有の性質が色濃い表現で、母語からの翻訳可能性が低いということでもある。
 だがマレは、自分の作品は和声を簡素化すれば、チェロでも演奏可能だ、と述べることも忘れてはいなかった。それでも、もちろん彼の本懐はヴィオールにある。音楽思考が弾き手や楽器の身体性と遠く切り離されていないところが、あの独特な質感に繋がっているように思える。
 タローはかつてラモーやクープランをモダン・ピアノで弾いて広く注目を集めたわけだが、ここでもケラスとのデュオだけではなく、マレも言っていたようにヴィオール曲を鍵盤の編曲で弾いている。いずれにしても、表現の輪郭はシャープになり、光も影もよりくっきりとしたものにはなるが、タローはそれでも工夫を凝らして、リュートを模した響きを起こすなど、彼なりにフラジャイルな形象や心理に触れようとしている。
 たとえば、有名な「膀胱結石手術の光景」はここでコメディ・フランセーズのギョーム・ガリエンヌの語りにそって演奏されているのだが、ピアノだとどうしても金属的な質感が加わり、その方向でモダンに冷やっとして、残酷にも響く。でも、この大手術、演奏では3分ほどで終わってしまうのだよ。名医にかかるとたやすいものである。ケラスとタローがマレの身体に臨んで試みたことはしかし解剖や切開ではなく縫合のほうなのだ、現在と18世紀を、300年もの時を経て結ぶための。

 正直なところ、このアルバムを初めて聴いたときには、どこかしら心に馴染まない感覚もあった。なんと言うのか、時空が奇妙に歪んでいる気がしたのだ。ちょっとした眩暈に近い感じもあった。とくにピアノの音がこつんこつんと響くように思えたし、どうしたってチェロとの空間は、ヴィオールとクラヴサンの線のようには絡み合っていかない気もした。
 しかし、よく聴いていけば、たんに真似して寄り添うのでもなく、かといって都合よく自分の手元に引き寄せるのでもなく、マレがみていたはずの幻影に肉薄しようと挑む意志と野心が強く漲ったトランレーションなのである。影踏みをするようにマレの音楽の後姿を追いかけるのではなく、いっそ一周して真向いから挨拶をするみたいに。
 そう思ってみれば、弾き手にして書き手たる名人の手元から離れたところにも、マレの鮮烈なヴィジョンはくっきりと投影されている。そのためには、またべつの手が必要で、その手つきは明確で精細であるに越したことはない。翻訳という営みが原像をさらに別の角度からも濃やかに照らし出すように、未来からやってきた人たちが灯す光や影のなか、マレの強い幻視の像は明瞭に揺らめいてみえる。曲のほうにしてみれば、現代の感覚に触発されて、いまさらのように閃くところも多々あったのではないか。それこそ現代の耳にとって、より生々しく感じられる部分はあるだろう。
 いま冬の部屋で電気再生されているマレの曲は、楽器は違っても、それでもマレの手のうちにあるのだった。未来からきた人は、そのなかで踊っているだけなのかもしれない。と思うほどに、天才のイマジネーションは鮮烈に感じられる。楽器の違いもあるし、見様見真似でない以上は、想像力と直観に頼るしかなく、だからこそいっそう直に触れてみせるしかない。
 いや、こんなものはマレではない、という人もいるのかもしれないが、それならば蠟燭の光でも灯して、薄暗がりの静寂のなかに理想をみていればいい。そもそも、聴いている耳をどうやって、調え直せばいいのか。音楽を聴くときはまだしも、いまさら山荘に籠るわけにもいかないし、暮らしを変えてもどうにもならない。ということは、できる範囲で、際限なく、やってみるほかないだろう。
 自分たちの感性と思考の方法で、どうやったら作品の創造力に迫れるか、ということを試みてみるしかない。やりかたは人それぞれだ。しかし、自分の心身でできることは限られている。限られているなかで、際限なく幻を夢みるしかない。聴いたり読んだりすることも、眠らぬ夢の続きだろう。亡くなった王国を遠く、しかし鮮やかに思い出すことができるのは、その先の未来に遅れてやってきた人間だけなのである。
 新年らしいことを書くのかと思ったら、そうでもなかった。そういう一日もある。

【information】
『マラン・マレ:作品集&編曲集』

ジャン=ギアン・ケラス(チェロ)
アレクサンドル・タロー(ピアノ)

KKC-6623 ¥3,300 (税込)

【Profile】
青澤隆明 あおさわ・たかあきら

音楽評論家。1970年東京生まれ、鎌倉に育つ。東京外国語大学英米語学科卒。主な著書に『現代のピアニスト30—アリアと変奏』(ちくま新書)、ヴァレリー・アファナシエフとの『ピアニストは語る』(講談社現代新書)、『ピアニストを生きる—清水和音の思想』(音楽之友社)。