日本コンサートデビュー25周年記念
イリーナ・メジューエワ ピアノ リサイタル

25周年記念リサイタルに寄せて

文:真嶋雄大

 イリーナ・メジューエワが来日して四半世紀が経った。歳月人を待たずとは言うが、早いものである。その間、国際秩序は紆余曲折、混乱や混迷するばかりではあるが、彼女が未踏の地でじっくりと自らの芸術を育み、円熟させ、そして深化させてきた。その比類ない至高の芸術に、日本にいながら直接触れることのできる我々はなんと幸福なことであろうか。

(C) Kazuhiro Okumura


 日本におけるデビュー・リサイタルは1997年6月24日、東京文化会館小ホールであった。プログラムはショパン、ラヴェル、スクリャービン、メトネルなど。それ以降の活躍はリサイタルやコンチェルトなどのコンサート活動やレコーディングなどまさに風雲際会、目覚ましいものがあるのは周知の通り。就中レコーディングに至っては、バロックから近代までの作品を中心に膨大な数をリリースしており、その録音間隔も衝撃的であるが、どれもが極めて高いクオリティであることには驚嘆させられる。

 そもそもイリーナの作品に対峙するアプローチは他とは一線を画している。作曲家が作品に込めた時々の心象風景や心の奥底に秘められた内省の淵までも鋭敏に感じ取り、彼女自身の研ぎ澄まされた感性と深々とした共感をもって瞭然と描き切るのである。そこには彼女の個性の根幹であるしっかりとした造形と堂々たるスケールを携えたダイナミズム、さらにみずみずしい詩情が芳醇に湛えられている。それがひとつに融合され、類稀な情熱を纏いながらクライマックスへと突き進んでいく展開は陶酔以外の何ものでもない。

 さらに重要なのは時代背景と様式観である。西洋音楽史を紐解けば、20世紀までは同時代の作曲家作品が次々と産み出され、発展してきたが、むろん現代でもコンテンポラリー作品は重要であるものの、演奏・鑑賞という視点では大多数は過去の作品を採り上げる再現芸術へとウェイトが移行している。その際にもっとも重要なのは様式観である。楽譜からのみならず、過去に生きた作曲家の個性や作品の成立動機、また社会背景などを十二分に検証し、探究を積み重ね、しっかりとした様式を俯瞰して演奏する時、音楽は初めて現代に甦り、生命力を得て飛翔するのである。

 そういう意味で彼女の持つ様式観は抜きん出ている。バロック時代のJ.S.バッハにはJ.S.バッハの、18世紀後半のモーツァルトにはモーツァルトの、そしてポーランドを離れて19世紀のパリに生きたショパンにはショパンの、まさに正統的な様式観が紡がれているのだ。それはタッチの精妙なコントロールであり、肌理細やかに揺れるフレーズ感であり、グラデーションのように移ろう色彩感であり、作曲家固有の造形や輪郭であり、もっと踏み込めば主題の展開であり、千紫万紅たる情景やシーンの表出であり、また馥郁と立ち昇る馨しい香りや気品でもある。

 そういう多彩なファクターをある時は調和させ、ある時は屹立させ、輝かしい音楽的感興を湧き起こすの。そういう卓越した天分を持って生まれてきたイリーナではあるが、それだけで屈指のピアニストになるほど世の中は甘くない。これまでのひた向きな研鑽や精進によるのは自明の理であり、それに助力したのは薫陶を得た教師たちだ。その師の系譜を遡って辿ってみると、直接の師ウラジーミル・トロップから、テオドール・グートマン、ゲンリヒ・ネイガウス、アレクサンドル・ミハウォフスキに到達する。ミハウォフスキの師は2人いて、カール・タウジヒとカロル・ミクリ。前者はフランツ・リスト、カール・チェルニーを経てベートーヴェンへ、後者はショパンの直弟子である。即ち、ショパンからは数えて7代目、ベートーヴェンからは9代目となるピアニズム直系の継承者なのである。その留まることなく受け継がれた音楽の血脈は、イリーナ・メジューエワという稀有のピアニストに結実し、ゆえに私たちに極上の音楽を味わわせてくれるのだ。

 当日のプログラムはブラームス「ソナタ第3番」とリスト「巡礼の年 第3年全曲」。同時代を生きた2人の作曲家にスポットをあて、若きブラームスが渾身の力を込めて作曲したソナタと、心身ともに充実したリストが調性を凌駕するなど来るべき次の世紀を見据えて書いた宗教的な作品との対比でもあり、しかもそれは19世紀ピアノ音楽を俯瞰した試みでもある。

 また使用されるピアノは、リサイタルのために神戸から運んでくる1925年製ニューヨーク・スタインウェイCD135。近年イリーナがとみに傾倒しているこの旧き良きピアノの格別な響きがトッパンホールを潤沢に満たす時、彼女がこれまで培ってきた垂涎のピアニズムが神韻縹渺たるファンタジーとして鮮烈に繰り広げられるに違いない。それがどれほどの音楽的感興を湧き起すのか、これはもう愉悦にほかならない。

日本コンサートデビュー25周年記念
イリーナ・メジューエワ ピアノ リサイタル

12/12(月)19:00 トッパンホール

ブラームス:ピアノ・ソナタ第3番 ヘ短調 Op.5
リスト:《巡礼の年 第3年》S163

問:B.A.M.E 03-3970-4776

イリーナ・メジューエワ オフィシャルサイト
https://mejoueva.net