阿部加奈子(指揮) from ハーグ(オランダ)
海の向こうの音楽家 vol.11

ぶらあぼONLINE新コーナー:海の向こうの音楽家
テレビなどで海外オケのコンサートを見ていると「あれ、このひと日本人かな?」と思うことがよくありますよね。国内ではあまり名前を知られていなくとも、海外を拠点に活動する音楽家はたくさんいます。勝手が違う異国の地で、生活に不自由を感じることもたくさんあるはず。でもすベては芸術のため。このコーナーでは、そんな海外で暮らし、活動に打ち込む芸術家のリアルをご紹介していきます。
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 久々となるこのコーナー、ご登場いただくのは来たる3月2日、新日本フィルに客演する指揮者の阿部加奈子さんです。東京藝大からパリ国立高等音楽院に留学。その後25年以上、長きにわたりヨーロッパで活躍されています。しかもその活動の内容がすごいのです。指揮者としては、フランス各地のオーケストラに客演を続け、現在住んでいるオランダでは、現代音楽アンサンブルを創設中。今年に入りモーツァルトのピアノ協奏曲を弾き振りし、今はオペラの作曲を進めていて23年2月にフランスのトゥーロン歌劇場で初演予定とのこと。ここに挙げただけでも、指揮者、ピアニスト、作曲家のひとり三役ですが、クラシック音楽に止まらず多くのフィールドで活躍されています。ヨーロッパ音楽シーンの現場が見える貴重な写真を添えてご自身の活動を振り返っていただきました。

文・写真提供:阿部加奈子

最近の筆者。2021年5月、武満徹作曲賞本選演奏会にて (c)Ryota Funahashi

 東京藝術大学附属高校を経て東京藝大作曲科で勉強していた私は、恩師である永冨正之先生のすすめで大学を休学し、かねてから憧れであったパリに留学。パリ国立高等音楽院に計11年間在籍し、全部で7つのクラスを卒業しました。ふと気づけばフランスに暮らして20年以上。その後オランダに拠点を移して今年で6年目。日本で過ごした年月よりもヨーロッパでの日々の方が長い人生となりました。現在はヨーロッパ各地でオーケストラやアンサンブルの演奏会やオペラ公演の指揮をする傍ら、ここ数年は定期的に日本に戻ってきて客演をする機会も増えつつあります。

パリへの留学を勧めてくれた永冨先生と同門生たち(筆者は前列右端)
2014年日本での指揮デビューした際に駆けつけてくださった永冨先生と

 私の母校パリ国立高等音楽院は、かつてベルリオーズやドビュッシー、ラヴェルらが通い、フォーレが校長を務めた、いわばフランス音楽史の象徴のような学校なのですが、私が通い始めた頃はすでに世界中から集まった生徒たちで国際色豊かな雰囲気でした。もともとフランス人は英語が苦手なこともありますが、授業は基本的に100%フランス語。そうした環境ですから、日常的に先生や友達と会話をしながら自然に言葉の響きなどを通じてフランスの文化が身についてきます。加えて、世界各国からやってきたクラスメートや音楽仲間たちとの交流の中で、様々な国の文化も学ぶことができます。私が仲良しだった同級生はトーゴ(アフリカ)出身でしたし、声楽科にはカメルーンの王子様が在籍していました。また作曲科には南アメリカの人がたくさんおりましたし、もちろん日本人をはじめとするアジア系の人も大勢いました。

パリ国立高等音楽院でのジョルト・ナジ先生とクラスメートたち

 私は卒業後そのまま音楽院で伴奏助手として働いていたのですが、ある日学校に行くと玄関に俳優の竹中直人さんがいらして「えっ!!」と思ってよく見たら日本の撮影スタッフや監督さんらしき姿も。その頃流行っていた『のだめカンタービレ』という漫画のドラマ版を撮影していたのでした(笑)。

パリ国立高等音楽院を反対側から臨む
夜のパリの街中も素敵

 卒業後のいわゆる「修行時代」は、音楽院の斡旋や音楽仲間たちなどを通じて、ピアニスト、アシスタント指揮者として様々な仕事をしました。急なスタジオ録音の伴奏、病気の合唱指揮者に代わって急遽ピアノを弾きながら合唱のリハーサルをする、土壇場でギブアップしたピアニストの穴埋めで難解な現代曲の初演のピアノパートを弾く、指揮科のマスタークラスの伴奏(指揮を見ながらオーケストラスコアをピアノで弾く)、ポップソングのアレンジ、オペラの副指揮、オーケストラの練習指揮などなど、この頃に引き受けたありとあらゆる仕事で得た経験が、そのまま今の私の指揮者としての血となり肉となっているように思います。

指揮活動を始めた2005年頃。フランス・クレルモン=フェランにて

 また、こういった仕事を通じて偉大な芸術家の方々と交流することもできました。中でもロストロポーヴィチ&ヴィシネフスカヤご夫妻、パリ管合唱団の伴奏者をしていた頃お世話になった合唱指揮者のアーサー・オールドハムさん、指揮者のクルト・マズアさん、そして恩師ファビオ・ルイージさんとの出会いと彼らから得たアドヴァイスの数々は、私の音楽に対する考え方の核になっています。

ファビオ・ルイージさんの研修会にて。
こう振るのだよと教えてもらった忘れがたい思い出(c)Barbara Luisi

 ここ数年は、母校であるパリ国立高等音楽院の指揮科の試験の審査員や、器楽クラスの試験の課題曲の作曲やハーグ王立音楽院での非常勤講師なども引き受けるようになり、世代の移り変わりをひしひしと感じつつ、お世話になった母校に恩返しできる喜びを噛み締めております。

 指揮科の学生だった頃から、フランス各地のオーケストラに客演し始め、かれこれ18年ほどになります。海峡を挟んでイギリスに隣接する北のノルマンディー地方、ドイツに近い東のアルザス地方、スイスと山脈を分け合うローヌ地方、地中海沿岸のコートダジュール地方、スペインにほど近いバスク地方や、ラングドック地方、大西洋に面したボルドー・アキテーヌ地方、、、フランスは同じ国とは思えないほど地方によって特色がまったく違いますし、オーケストラの性質も異なります。各地を訪れてその土地のオーケストラと音楽づくりを共有し、地方料理や特産ワインに舌鼓を打つのは毎回ワクワクする体験です。

筆者と料理が写った数少ない写真。それにしてもこのボリュームとふんだんな海の幸!
2015年3月、カーン管弦楽団に客演したとき。
私の隣はハーピストの福井麻衣さん、右端がこの日「ピアノ協奏曲第2番」の
フランス初演を行った作曲家のミカエル・ジャレルさん
2019年3月、世界初演を含むカーン管弦楽団での演奏会を終え、作曲家ティエリー・ペクさんとオケメンバーとの打ち上げ
昨年11月にジュネーヴ室内管を指揮したとき、レマン湖のほとりで。こんなに寒いのに、後ろでは泳いでいる女性たちが…

 昨年は、パリ・ギャルド・レピュブリケーヌ管弦楽団という、パリの憲兵隊(軍隊の一つ)に付属するオーケストラを初めて指揮しました。練習場はパリの中心にある憲兵隊基地の一角、しかも厩の裏にあり、ナポレオン時代から変わっていないであろうデザインの軍服を着た兵隊さんたちが、馬でそこらを闊歩しているのです。馬糞臭漂う中での練習、最初は戸惑いましたが、オーケストラの人たちともすぐに仲良しになり、演奏会の後トランペットの首席の方から「ぜひ次期音楽監督に立候補してください」とメッセージをいただきました。ちなみに憲兵隊オーケストラの指揮者は軍隊に所属する「大佐」扱いなのです。日本人女性の私を「大佐」に、と言ってくださるフランス人の楽団のみなさんの考え方のスケールの大きさに、嬉しいのを通り越して感心してしまいました。

2021年10月にアンリ・デュティユー音楽祭でギャルド・レピュブリケーヌ管を指揮したとき
演奏会が行われたシノンにはデュティユーの別荘があり、街のみなさんはそれを誇りにおもっています

 オランダに居を移して今年で6年目になりますが、まだまだオランダについては知らないことだらけです。数年間の生活から感じるのは、オランダ人はフレンドリーで、異なる価値観や文化を受け入れることにとても寛容であるということ。同性婚や安楽死、ドラッグ服用に至るまで色々な新しい制度がいち早く合法化され社会で認められる。その一方で、伝統や古いもの愛でる気持ちもとても強い。だから音楽でいえば、古楽と現代音楽が完全に共存している感じです。そこが、フランスでとてもアカデミックな環境下に長くいた私にとっては新しい風であり、良きバランスとなっているように自分で感じます。あと、、、オランダ人はやたらと背が高い。とにかくデカい(笑)。2メーターくらいありそうな男の人はザラだし、女性も180センチくらいある人も結構います。164センチ、日本でもフランスでも「大型」だった私ですが、オランダではまるで大木に囲まれたタケノコのようなものです。。

 2年前から準備をして、現在ハーグを拠点とした8人の奏者からなる現代音楽アンサンブル「Orochi」を創設中です。新しいレパートリーの開拓や、編曲の初演、ポップやロック、民族音楽他多分野の音楽を自由自在に演奏できる柔軟なアンサンブルを目指して目下色々模索中。どんな風に成長してゆくのか楽しみです!

アンサンブル「Orochi」の集合写真
リハーサル後にメンバーと近くの海岸を散歩したりすることも

 オミクロン株の感染拡大で騒然とするなか始まった2022年ですが、私にとっては初っ端からチャレンジの連続です。年始には生まれて初めてモーツァルトのピアノ協奏曲第21番の弾き振りをさせていただき、そこで自作のカデンツァも披露しました。その後すぐにベルギーに飛び、新作オペラのリハーサルを開始。世界の伝統楽器を集めたアンサンブルの芸術監督であるレバノン系イギリス人女性ブシュラ・エル=トゥルクさんによる作曲、エジプト人のライラ・ソリマンさんによる、ドキュメンタリービデオを随所に挿入した演出。エジプト人作家・人権運動家ナワル・エル・サーダウィさんによる原作「Woman at Point Zero」は、アラブ圏における女性の人権を真正面から取り上げた名作で、リハーサルの間、チームの間では絶えず、登場人物たちの視点から見る女性の人権の現状や、彼女たちの受けたトラウマや心の移り変わりについて熱い議論が繰り広げられています。

 音楽も、即興部分が随所にある斬新な書法で、毎回歌手と相談しながら新しいアイディアがどんどん加わっていき、一体どのような形に最終着地するのか全くわからない!(笑)おまけにアラビア語の音声を歌やセリフの合間にタイミングよくさし挟んでゆかねばならないので、アラビア語がわからないのに音声のキュー出しをしなければならない私には結構大変なのです(汗)。

 ベルギーのLODプロダクションが制作するこのオペラは、今年の7月にエクサンプロヴァンス音楽祭で世界初演されたのち、2023年までヨーロッパ各地の劇場で上演される予定です。ちなみに私もステージ上で指揮をしたり歌ったりセリフを言ったりするので、目下私のための衣装も制作中なのだとか。

今夏初演されるWoman at Point Zeroの稽古場での一場面(c)LOD

 並行して作曲家でもある私は、自作のオペラ「パドレ」の作曲も進めております。フランスの現代音楽アンサンブルから委嘱されたこのオペラは、江戸時代の長崎で起こった隠れキリシタンの弾圧と、拷問を受けた宣教師の殉教や棄教について描かれた作品です。初演は2023年の2月に南フランスのトゥーロン歌劇場で行われる予定。このオペラの他、オーケストラ作品や歌曲などの初演も今後フランスで予定されています。

 さらに、つい先日の事ですが、2024年秋より、私はフランスのオーヴェルニュ地方に拠点をおくドーム交響楽団の音楽監督に就任することが決まり、任期の開始に先立って今年から定期的に客演をすることになっております。オーヴェルニュ地方は日本のスーパーでも手に入るミネラルウォーター「ボルヴィック」の採水地として有名で、自然豊かな山岳地帯です。いずれ日本の皆さんにもドーム交響楽団の演奏をご披露できる日が来るといいなと願っております。

2021年12月に音楽監督の怪我のため、急遽代役で出演したドーム交響楽団演奏会
ドーム県はとても自然豊かな街
山間の地形ですので、少し歩くとこんな光景も

 20年以上ヨーロッパでコツコツと活動を積み重ねてきた私ですが、音楽についての考え方を根本的に見直すきっかけとなる出来事がありました。2011年3月11日の東日本大震災です。当時パリでインターネットからとめどなく流れてくる、燃えさかる町や津波に飲み込まれる村の映像を見た私はショックのあまり2日間何もできませんでした。その後「音楽家として何か祖国のためにできることはないだろうか」と考え、同志を募って募金集めのためのチャリティーコンサートを開催しようということになりました。数ヶ月にわたりパリのあちこちで様々な音楽家やボランティアの方々のサポートのもとコンサートを開き、その集大成として、パリのユネスコ大会議場でオーケストラと合唱による演奏会を企画し、私が指揮を担当しました。インターネットでの呼びかけに応じて集まってくださった音楽家有志によるオーケストラと合唱団計200人がステージに立ったのですが、その時に演奏されたオーケストラ作品がドヴォルザークの交響曲第9番「新世界より」でした。演奏家の皆さんと聴衆の皆さんが、音楽を通じて被災地や被災者への想いと、犠牲となった多くの魂への鎮魂で気持ちを一つにする様を指揮台の上で体感した私は、それ以来「人類にとって音楽の果たす役割は何なのか」という問いを持ち続けることとなりました。

ユネスコ大会議場で行われた東日本大震災チャリティーコンサートでの様子

 そして来たる3月2日、「都民芸術フェスティバル2022年」の一環として、東京芸術劇場で新日本フィルハーモニー交響楽団に客演させていただくのですが、プログラムに奇しくもこの「新世界より」が含まれております。この作品のスコアを開けるたびに、私の脳裏には東日本大震災のことが思い出され、そしてユネスコの会議場で涙しながら演奏を聴いていた聴衆の皆さんや、もらい泣きしながら演奏していたステージのみなさんの顔が頭をよぎり、改めて音楽の持つ力の偉大さを痛感し、身の引き締まる思いです。

 パンデミックが始まってもう2年になります。世界中が得体の知れない恐怖に怯え、生活が麻痺し、命が消えてゆく。こんな不安な時代だからこそ、人々の心に直接訴えかけ、勇気を与える音楽の力が必要とされているのではないでしょうか。

 ヨーロッパに拠点を置く私ですが、たとえフランスであってもオランダであっても、祖国日本であっても、平和と幸せを願う人の気持ちは同じだと思います。早く私たちの世界が健康を取り戻し、人々の生活に明るさと潤いが戻ってくることを祈るばかりです。先の見えない不安に暗く沈んだ心に、音楽家として少しでも温かいともしびを灯すことができれば、と願いつつ、更に研鑽を積んで参りたいと思います。

【Information】
都民芸術フェスティバル
オーケストラ・シリーズNo.53 新日本フィルハーモニー交響楽団

2022.3/2(水)19:00 東京芸術劇場 コンサートホール
指揮/阿部加奈子
ヴァイオリン/北川千紗
ドヴォルザーク:序曲「謝肉祭」作品92、ヴァイオリン協奏曲 イ短調 作品53、交響曲第9番 ホ短調 作品95「新世界より」

阿部加奈子(指揮)Kanako Abe 
オランダ在住。東京藝術大学音楽学部作曲科を経て、パリ国立高等音楽院指揮科で学ぶ。これまでに作曲を永冨正之、指揮をジョルト・ナジ、ヤーノシュ・フュルスト、ファビオ・ルイージ、エティエンヌ・シーベンスなどに師事。
2005年に現代音楽アンサンブル「ミュルチラテラル」を創設、2014年まで音楽監督を務める。これまでにIRCAMとの提携、ラジオ・フランスへの録音をはじめ、ストラスブール音楽祭、ヴェネツィア国際現代音楽祭などで140曲以上の世界初演を手がける。
その一方で、チューリッヒ歌劇場やモンペリエ国立歌劇場でファビオ・ルイージ、エンリケ・マッツォーラ等のアシスタントを務める。これまでにイル・ド・フランス国立管、モンペリエ国立管、ギャルド・レピュブリケーヌ管、ジュネーヴ室内管、日本では、東京フィル、東京シティ・フィル、兵庫芸術文化センター管、広響などと共演。
2022年7月にはブシュラ・エル=トゥルクの新作オペラ「Woman at Point Zero」の世界初演でエクサン・プロヴァンス音楽祭にデビュー、2023年にかけて同プロダクションにてヨーロッパ各地の音楽祭やオペラハウスへのデビューを予定している。2024年9月からフランス・ドーム交響楽団の音楽監督に就任予定である。ハーグ音楽院非常勤講師。
阿部加奈子公式ホームページ
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Twitter @bakanakov
YouTube https://www.youtube.com/KanakoAbe,conductor