雪の日の東京を歩いていた。当時出たばかりの『MAGIC AND LOSS』が、ずっと頭のなかをめぐっていた。雪のなか新宿まで出かけるなんて、誰かと待ち合わせをしていたのかもしれないけれど、よく思い出せない。覚えているのはただ、冷えた頭のなかで、ルー・リードがぶつぶつと歌っていたことだ。タイトルどおり、それは喪失から生まれた新たなアルバムだった。まだ日のあるうちから、DUGに向かっていたのだ。でも、頭のなかはジャズじゃなかった。人生は小馬に読み聞かせるサンスクリットのようなものだ、とルーは言った。
先日、東京にひさしぶりの雪が降ったときにも、ルー・リードの歌が心のうちにめぐっていた。その主題は“What’s Good?”だ。『魔法と喪失』と題されたアルバムのリリースから今年で30周年になる、ということはつまり、あの雪の日は1992年の冬だった。雪が降っていることと、ルー・リードの歌はそんなに変わらない。雪の日はまたべつの雪の日だけれど、ルー・リードはルー・リードのまま変わらなかった。冬はやはり冬であるように、その人が別人であるはずもない。春がきて、生きていればルー・リードは80歳のはずだから、それを思うとちょっと驚く。だが、80歳になるルー・リードは信じられても、50を過ぎた自分はにわかには信じられない。魔法は遠いし、再生も遠い。「力と栄光」が訪れたことだってなかった。
雪の日の帰り道、これまたひさしぶりに、うどん屋に寄ろうと思った。むかし『ぶらあぼ』編集部があったビルの路面にある、丸香だ。寒い日に、うどんの湯気はしあわせに思えた。席に着くと、暖簾越しに、雪が舞っていた。肉うどんをたのんだ。「僕は肉カレーうどん」という少しくぐもった声が思い出のように聞こえてきた。「この時期には出るのよ」と彼は言ったんだ。取材現場からの帰り道、愛車で送ってくれたのだった。それで、メニューをざっとみなおしたけれど、探せなかった。できたての肉うどんに胡椒をかけて食べると、カレーはなくてもおいしかった。湯気の向こうで、雪がちらちらと降っていた。
清志郎さんが亡くなったときのことだ。「どうしてあいつはなにも書かないんだ」と彼が怒っていたと、共通の友人が伝えてきた。どうしてか忌野清志郎をすごく好きだということを、少しだけ年上の彼は知っていたのだ。ときどき仕事で会うのに、直接言ってこないところもまた、どこか彼らしいと思った。あいつは書き手なのだから、なにか言うことは義務だ、というふうに彼は不平を漏らしていたらしい。いつも穏やかな口ぶりの彼のことだから、きっと、あからさまに怒るでもなく、ぶつぶつと述べていたのだろう。書くときがきたら書くよ、とひとまずその友人には答えておいた。なんでもかんでもすぐに書くわけにはいかないんだよ。そういうのは自分で決められることでもないんだ。
考えてみれば、彼は写真家だったから、現場に立ち会って、瞬間瞬間、即座にシャッターを切ることが仕事だった。仕事というのは生きることの重要なかたちだ。瞬きの分だけ、写真は残される。だから、呆然とするだけで、なにもしないでいることはおかしい、と思ったのかもしれない。しばらく経って、なにか書いたならそれでいい、と彼が言っていたと伝え聞いた。内容には不満でも、書いたというそのこと自体には納得した、とでもいうかのように。
写真は瞬間を射止める魔法だ。文章は喪失の流れでもある。だが、たぶんほんとうは、どっちもどっちだ。そのなかで生きているのか、死んでいるのかもわからない。けれど、写真を撮ることは、生きていないともうできない。それをみることも。書くことも、読むこともそうだ。
そういえば、彼の写真は静かだった。おそらく無闇に煽り立てることはなく、執拗な待機のなかで静観していた。演奏のさなかの人間の劇的な表情を見据えるときも、しっかりと冷静だった。そんな気がする。そのなかでも私がとくに好きな写真は、たいてい陰翳を湛えたものだった。デジタルでも、フィルムの奥行を想わせた。演奏する身体、音楽の動きは制止されるのではなく、その瞬間に息をひそめた。そこでは時間は凍結させられるのではなく、悠然とした流れのただなかで、あるいは自然とひと息ついているようにみえた。
大晦日の夜、件の友人から突然連絡があって、彼が亡くなったって言うんだ。なにがなんだかわからなかった。つい最近会ったとき、「また新しいレンズを買わないと」って話していたばかりじゃないか。「フェアじゃない、まったくフェアじゃない」と思った。けっこう粘って、いい取材をして、いい写真を撮って、いっしょに紙面を分かち合うのが、もう長いことふつうにつづけてきた、いつもの“青い”やりかただった。「明日 また 楽屋で会おう、新しいギターを見せてあげる」と泣きそうに歌う、清志郎の震える声がたちまち聞こえてきた。
——だからさ、書いたよ、青柳さん。新しいレンズ、見せておくれよ。
それでも。雪の日に食べる肉うどんはおいしかった。肉うどんをふつうにおいしい、と感じる自分がいた。ふっといなくなった人は、ふっとまた現れるのだろう。こんども出会えるかな…。帰り道も、雪は音もなく、重たさも軽さもなく、静かに降りつづいていた。雪の上の足跡はどこかにつづいている。
残された写真一枚一枚のなかに、過ぎゆく手前の時は係留されている。そうして凝視された数えきれない瞬間に、私たちはこれからもまた彼、青柳聡のまなざしを探すだろう。
青澤隆明(音楽評論)