Aからの眺望 #4
アマデウスのほう(後篇)

文・写真:青澤隆明

 考えてみれば、毎日が誰かの誕生日であり、なにかの記念日だ。天才や友人にかぎらず。そう思うと、悲しいことばかりではない。モーツァルトの誕生日の話のつづきをしよう—。

 2010年1月27日の夜、ニコラウス・アーノンクールはウィーン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮していた。『モーツァルト週間』のさなか、ザルツブルクの祝祭大劇場で。レイフ・オヴェ・アンスネスがピアノ協奏曲イ長調K488を弾いたのは、シューベルトの交響曲第5番変ロ長調D485と第7番ロ短調D759の間だから、ちょうどモーツァルトが生まれた時分だったろうか。

 アンスネスのピアノは、作曲家の内心に迫る真率な独奏を聴かせた。明朗快活な場面でも決してはしゃぎすぎることがなく、すべての音が謙虚で誠実な佇まいのうちに、モーツァルトへの温かな共感を率直に映し出していた。とくに、心を込めたアダージョの弾き出しなど、彼らしい純朴な音楽がじっくりと湧き上がってきて。

 しかし、指揮者とオーケストラのあいだに、親密な理解が通っているとは言えなかった。アーノンクールの知的で鋭敏なアプローチはこの夜、十全にはオーケストラの共感を引き出せていなかった。モーツァルトが舞台上を飛び回り、聴き手の心とも遊ぶには、どうしたって木管楽器をはじめとするオーケストラとピアノとの室内楽的な対話が必要だ。

 私が贔屓目にみていたわけではなく、そのあいだモーツァルトはもっぱらピアノの傍らにいた。ほんとうは人々の間を走りまわっていないとおかしいような場面ですら、モーツァルトも「自分が誰だかわからないような感じ」だった。ザルツブルクを抜け出して、大いに活躍したウィーンの町のオーケストラといっしょのはずなのに。

 「いいかい? モーツァルトはいつも人々と繋がっていた作曲家だ。彼の音楽は人々に、そしてみんなの話すことに繋がっている。それが、モーツァルトを偉大なオペラ作曲家にしている。まさに劇場のようにね。ピアノ協奏曲の多くも、ピアノ・パートの素晴らしさだけでなく、木管楽器をはじめ各パートとの対話なども生き生きとして、オペラ的な世界が展開していく。モーツァルトは社会的で、人間に関心があり、高いところにいるけれど、人生を愛している。だから、僕は舞台のうえでも、モーツァルトをやはり人間として感じている。そして他の演奏家との対話を心から楽しんでいるよ」。

 アンスネスが前夜に語っていたその言葉を思いながら、寒いだけの帰路を転ばないように歩いた。ほとんど人気もなかった。さっきまで劇場を埋め尽くしていた方々は、どうやって帰ったのだろう? 川べりのホテルに帰るのに、少しだけ寄り道をして、モーツァルトの生家のまえを通った。いまでは月がきれいに昇っていた。

 月日は流れて、あれからもう12年がめぐった—。アーノンクールもこの世を去ってしまった。アンスネスはと言えば、ますます着実に自分の道を歩んでいる。ちょうどあの頃から育んできたマーラー・チェンバー・オーケストラとの絆を『ベートーヴェン・ジャーニー』と銘打つ協奏作品チクルスで深めたさきに、あらためてモーツァルトをみつめているところだ。

 「モーツァルト・モメンタム1785/1786」と名づけられた濃密なプロジェクトのことである。モーツァルトの創作が沸騰したその2年間に焦点を当て、革新的な協奏曲と室内楽曲、声楽曲の諸作に集中して取り組むものだ。コンサートとレコーディングを連動する計画だったが、コロナ禍によって最初のツアーを奪われてしまった。それでも、2020年の2月と11月にベルリンでレコーディングを敢行して、彼らはその最初の2枚組をつくり上げた。

 1作目は1785年の作品を集めたアルバムで、ニ短調協奏曲K466とハ長調協奏曲K467、幻想曲ハ短調K475、ピアノ四重奏曲ト短調K478、フリーメイソンのための葬送音楽K477、変ホ長調協奏曲K482を多様に収めている。件のイ長調協奏曲K488は1786年の作だから、続篇を待たないといけないが、それもほどなくリリースされるだろう。なにより楽しみなことに、今秋には本プロジェクトの来日公演も、東京オペラシティで2日間予定されている。

 このレコーディングを聴くと、ここではアンスネスがとりわけモーツァルトで親しく求めてきた室内楽的な対話が、温かなかたちで濃く実っていることがわかる。まず明らかなことは、アンスネスもマーラー・チェンバー・オーケストラも、モーツァルトをザルツブルクやウィーンに押しとどめることはないし、もちろん18世紀に連れ戻そうとも考えていない。

 マーラー・チェンバー・オーケストラの汎ヨーロッパ的な国際色は、コスモポリタンとしてのモーツァルトの音楽を、明瞭に表現するのにふさわしい強みがある。ピアノもオーケストラもモダン楽器を使っているが、時代楽器演奏が明瞭に可聴化するように、それぞれの声部がくっきりとした層を表すことも大きな特徴だ。モダンの名手を揃えたアンサンブルだからこその機能性と柔軟さも加味して、いっそうつよく鮮やかに描き出されている魅力もある。

 そして、アンスネスの成熟もまた、自ずとじっくり滲むように響いてくる。決して道を急がず、しっかりと歩いてきた素朴な足どりは、モーツァルトがすばしこいからといって、ことさらに急くことはない。彼というピアニストとの信頼関係だけでなく、マーラー・チェンバー・オーケストラの演奏表現にもまた、奏者の成熟とともに歳月をかけて、風格や奥行きを増してきた強みもあるだろう。今年で結成25周年、もはや若者のオーケストラではないのである。

 つまりはモーツァルトだけが歳をとらない。いつも音楽の瞬間のなかに生きるままに。

【Profile】
青澤隆明 あおさわ・たかあきら

音楽評論家。1970年東京生まれ、鎌倉に育つ。東京外国語大学英米語学科卒。主な著書に『現代のピアニスト30—アリアと変奏』(ちくま新書)、ヴァレリー・アファナシエフとの『ピアニストは語る』(講談社現代新書)、『ピアニストを生きる—清水和音の思想』(音楽之友社)。