Aからの眺望 #2
祈り、火の鳥、歌と踊り
——アレクサンドル・カントロフの日本初リサイタルを聴いて

文:青澤隆明

2021年11月24日、トッパンホール(c)大窪道治

 そして、音楽はつづく。祈りに終わりがないように。

 アレクサンドル・カントロフが弾くピアノ左手のための「シャコンヌ」について、前回ここに記したとき、かんたんには言いたくない「祈り」という言葉を、私はつかった。カントロフの演奏を録音や配信で聴き継ぎ、ようやく生演奏に触れるうちにも、その思いは自ずと強まっていったからだ。

 祈りと呼ばれる心の動きは、自分よりも途轍もなく大きいなにものかに対する、畏怖に近い思いとともに湧き起こってくる。おそらくそれは、個人の救済などということをはるかに超えて、生物の直観として私たちの根源に長い時間をかけ、くり返し刻まれてきた奥深い感情なのだろう。具体的な願掛けなどとは違う、膨大な時間の記憶にもとづく直観である。

 祈り——というその言葉を広く、澄んだ意味で捉えるべきだろう。すると、そうした祈りは、アレクサンドル・カントロフが18歳のときに録音したストラヴィンスキー(アゴスティ編)の『火の鳥』はもちろんのこと、バラキレフの「イスラメイ」の超絶技巧のただなかにも聞こえてくる。

 カントロフのピアノ演奏には、どこか超自然的な精神への畏怖を思い起こさせる性質がある。だから、その彼が他ならぬ『火の鳥』を愛奏してきたのは象徴的なことにもみえる。それはオーケストラ名作のピアノ独奏用編曲として傑出した作品で、たしかカントロフがチャイコフスキー・コンクールの予選でも披露した自信のレパートリーでもある。2021年秋の日本で3日を通じて弾いたアンコールも、その『火の鳥』のフィナーレだった。

 私が聴いたのは初めの2公演、2021年11月23日の杜のホールはしもと、24日のトッパンホールでのリサイタルだ。とりわけ後の夜に飛び立った「火の鳥」は、ほんとうに魔法のようだった。プログラム本篇をも凌駕するほどに、その響きは途方もない地平から湧き起こってきた。あのような魔法にふさわしい、神秘に触れる言葉を、私はいまもち合わせていない。

 とはいえ、それは突然に発生したものでもないだろう。「火の鳥」の生命が響きとして発現されるには、やはりそのときの空間と心象が大きく関わってくる。ギド・アゴスティが編曲したピアノ独奏版は、踊り、歌、そして終わりの曲へといたる構成だが、このことは音楽が深く歌と踊りに関わるものであるという事実をよく映し出している。3曲を通じ、魔王の踊り(Danse infernale)、子守歌(Berceuse)ときて、終曲(Finale)に辿り着くのと、こうしてアンコールで予告もなく突然「火の鳥」のフィナーレが出現するのとでは、聴き手の衝撃も大きく違う。

 リサイタル本篇のプログラムでは、新盤にも収録されたブラームス初期の2作『4つのバラード』op.10とピアノ・ソナタ第3番ヘ短調op.5の間に、リストの「ダンテを読んで」を組み合わせていた。19世紀のヴィルトゥオーゾの焔は、リストとブラームスの内に燃え立ち、そうして『火の鳥』へと受け渡されたのだった。ここにいたる道行きのすべてを不思議な焔に宿すように。カントロフの演奏は業火を超えて、「火の鳥」に象徴される、生命の不滅を謳い上げた。

 初日の杜のホールはしもとでのアンコールは、最初に『火の鳥』終曲が登場し、それからモンポウの「歌と踊り」第6番、そしてリストの「ペトラルカのソネット第104番」へと続いた。これらの歌も、踊りも、水際立って純粋なものだ。翌晩のトッパンホールでは、まずはやさしくグルックの「メロディ」が奏でられ、それから圧巻の『火の鳥』終曲へと続いた。おしまいには、ブラームス晩年のイ長調のインテルメッツォop.118-2が親密に歌われた。

 ブラームスとリストの本篇についても書きたいことはたくさんあったが、アンコールに私の偏愛するモンポウの「歌と踊り」、さらにはブラームス晩年のイ長調インテルメッツォを聴いたあとで、いったいなにを言えばよいのだろう?

 それでも、やはり一言くらいは——。杜のホールはしもとでの初日は、奏者にしてみれば感染症防止対策上の隔離明けで、楽器の状態もあってか、求める響きの空間を十分に生きるには苦労があるようにみえた。ブラームスの『バラード』では手探りの感もあったが、リストの「ダンテ・ソナタ」に切り込んで、彼の鋭い才気は着火した。音の冴えや切れが増し、葛藤と苦闘が、そのまま劇的な表現に繋がったところもある。ヘ短調ソナタでの若きブラームスの表現の振幅もそうして、ダイナミックな鋭気を宿していった。 翌夜のトッパンホールでのリサイタルでは、空間の親密さと楽器の音の温かさも大きく、全体に演奏の喜びが高まっていたようで、それだけピアノを弾く愉楽がのびやかに湧き上がってきた。もちろん劇的な葛藤や表現の激烈さを宥めるほどではないが、作品の孕む挑戦の意欲がより円滑に響いた側面もあった。どんなかたちの表現であれ、表現は伝わろうとする喜びを帯びている。その意味でまさに幸せなコンサートとなった。だからこそ、アンコールにいたって、あの魔法の「火の鳥」や、ブラームス晩年のインテルメッツォの境地が顕現したのだろう。

 明くる日の夜、同じトッパンホールでの演奏会では、そうした両方の長所、言ってみれば冷たさと温かさ、葛藤と幸福、苦闘と愉悦がバランスよく合わさって、アレクサンドル・カントロフの本領がさらに発揮されるのだろう、と予想された。環境にも慣れて、より作品に強く集中した、鬼気迫る演奏が期待されるところだったが、残念ながら私は聴けなかった。それもまた人生だ。

【Profile】
青澤隆明 あおさわ・たかあきら

音楽評論家。1970年東京生まれ、鎌倉に育つ。東京外国語大学英米語学科卒。主な著書に『現代のピアニスト30—アリアと変奏』(ちくま新書)、ヴァレリー・アファナシエフとの『ピアニストは語る』(講談社現代新書)、『ピアニストを生きる—清水和音の思想』(音楽之友社)。