英国音楽シーン最前線 ─ 後藤菜穂子のロンドン・レポート

 依然としてパンデミックの収束が見通せないながらも、秋にはコンサートが通常開催されるようになったイギリス。この1年半あまり日本滞在が続いていたロンドン在住の音楽ライター、後藤菜穂子さんが11月に久しぶりに自宅に戻られたと聞き、最近の現地の音楽事情をレポートしていただくことにしました。ちょうど、ロジャー・ノリントンの引退が発表されたタイミングでもあり、ラスト・コンサートの様子も交えてお届けします。

ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団公演のカーテンコール(ロイヤル・フェスティバル・ホール)
©Nahoko Gotoh

取材・文:後藤菜穂子

 英国では、2021年秋の新シーズンからようやく音楽活動が通常に戻り、オペラやオーケストラのシーズンも特に規制や制限もなく再開した。11月に筆者が約20ヶ月ぶりにロンドンに戻った時には、観客に対してマスク着用の緩いお願いがあった以外は、コロナ前とほぼ変わらないかのように見えた。

 ロンドンではオーケストラの公演を3つ聴いた。ロイヤル・フェスティバル・ホールでクラウス・マケラ指揮ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団(LPO)(11/24)、サントゥ゠マティアス・ロウヴァリ指揮フィルハーモニア管弦楽団(12/2)、そしてバービカン・ホールでジャナンドレア・ノセダ指揮ロンドン交響楽団(LSO)(11/25)。LPOとフィルハーモニア管の2団体は、ちょうどこの秋から新しい首席指揮者を迎えたところなので、再開とともに新スタートを切れたのは幸いだったと思う。

 筆者の滞在中には、LPOの新首席指揮者エドワード・ガードナーの指揮する公演はなかったのだが、その代わりに、今をときめくフィンランドの俊英、クラウス・マケラを聴いた。25歳にしてオスロ・フィルとパリ管の2つのシェフを務めるマケラだが、今回がロンドン・デビュー。メシアン、サン゠サーンス、ドビュッシーのフランスものプロだったが、きわめて精緻なタクトを見せ、ドビュッシーの《海》ではけっして勢いにまかせず、テクスチュアの細部を浮き彫りにする丁寧な音楽作りに好感を持った。自分の中に目指したい曲のイメージをしっかり持ち、それを確信をもってオーケストラから引き出す手腕は、25歳とは思えない。来たる6〜7月の都響再登場が楽しみだ。

クラウス・マケラ Klaus Mäkelä

 他方、フィルハーモニア管の新首席指揮者のロウヴァリも同じくフィンランド出身の逸材だが、マケラとは対照的な直感タイプで、予測のつかない魅力がある。シベリウスのヴァイオリン協奏曲(独奏:P.クーシスト)とベートーヴェンの《田園》のプログラムを聴いたが、ロウヴァリの魅力はオーケストラをたっぷりと響かせ、歌わせる点にあり、洗練されたフィルハーモニア・サウンドをサロネンから引き継いでいると感じた。おそらくベートーヴェンのような古典よりも、9月の就任公演で指揮した《アルプス交響曲》など大編成のレパートリーでより力を発揮すると思われる。

 LSOは12月上旬にサイモン・ラトルが3公演指揮するはずだったが、新型コロナウイルスに感染(軽症)したために出演できず、キリル・カラビッツが急遽代役を務めた。今回筆者が聴いたLSO公演は、首席客演指揮者のノセダの登場の回。前半にR.シュトラウスの交響詩《マクベス》、後半は《ロメオとジュリエット》のバレエ音楽よりノセダ自身が選曲した抜粋、というシェイクスピア・プログラムとなった。ノセダのエネルギッシュで求心力の強い指揮ぶりに、奏者たちは100パーセントの力で応え、とりわけ《ロメオとジュリエット》ではバレエの各場面が次々とヴィヴィッドに脳裏に浮かぶ演奏で、すっかり引き込まれた。久しぶりにロンドンのオーケストラを聴き比べると、ヴィルトゥオジティとパワーの点ではLSOが頭一つ抜けていることを改めて実感した。なお、この日のLSOは管楽器以外は全員マスク着用、管楽器はディスタンス配置であった(LSOは海外公演が多いため日頃から検査体制が厳しいのかもしれない)。

ロンドン交響楽団公演開演前(バービカン・ホール) ©Nahoko Gotoh

 さて、ロジャー・ノリントンといえば、ピリオド奏法の先駆者として多数のレコーディングやN響への客演を通して日本でも親しまれてきたが、11月に引退が発表され、11月18日、ロイヤル・ノーザン・シンフォニアとの公演(英国北部のセージ・ゲイツヘッドにて)が最後の舞台となったので、急遽現地へ駆け付けた。御年87歳のノリントンは足取りこそやや慎重だったものの、その知的好奇心とお茶目なユーモアのセンスはまったく変わらず、トークを交えたオール・ハイドン・プログラム(交響曲2曲ほか、英語の歌曲や弦楽四重奏曲から成る18世紀風のミックス・プログラム)で聴衆を愉しませた。若手中心のノーザン・シンフォニアもモダン楽器使用だが、「ピュア・トーン」と豊かなアーティキュレーションで活き活きと演奏した。筆者にとっていちばん印象残っているノリントンの実演はLPOとのハイドン《天地創造》であったので、最後にもう一度彼のハイドンを聴きながら、長年にわたる刺激的な音楽作りに感謝した。引退しても、どうぞお元気で。

ロジャー・ノリントン Sir Roger Norrington(セージ・ゲイツ・ヘッド・ホール)
©Thomas Jackson at Tynesight Photography

 ロンドンのオペラ・シーンもようやく活気が戻ってきたところで、筆者はロイヤル・オペラ(ROH)でダニエーレ・ルスティオーニ指揮による《マクベス》(P.ロイド演出の再演)、オクサナ・リニフ指揮による《トスカ》(J.ケント演出の再演)を鑑賞した。観客はコロナ前のレベルまで戻っているとは言いがたかったが(特に《トスカ》では中間の価格帯の券が売れ残っていた)、舞台はほぼ通常通りで、ピットでは管楽器以外は全員がマスクを着用していた。

ロイヤル・オペラ・ハウス外観 ©Nahoko Gotoh

 ROHでは、次の音楽監督が決まらないために任期を延ばしていたアントニオ・パッパーノがいよいよ2024年秋よりLSOに移ることになったので、次期シェフを見つけることが急務となっている。タイムズ紙によれば、今シーズン登場する若手/中堅の指揮者たちは全員次期監督候補と見なされているとのこと。ルスティオーニは、もともと同劇場のヤング・アーティスト出身でパッパーノのアシスタントも務め、その後リヨン・オペラで経験を積んできたので、有力な候補かもしれない。キーンリーサイドが主演した《マクベス》では、オーケストラから鮮やかな音色を引き出し、各場面の情景や心の機微も巧みに描いた。キーンリーサイドは以前ROHの日本公演でも同役を歌ったが、声がより重たくなっていて、マクベスが王位をめぐって狂気に取り憑かれていくさまは迫力があったが、中期ヴェルディ作品としてはもうすこし明るい声がふさわしい気もした。一方、注目のリニフはROHデビュー。最近ボローニャ歌劇場の音楽監督に任命されたばかりなので、ROHの候補にはならないだろうが、オーケストラの実力を引き出しつつダイナミックにまとめ上げる手腕、歌手のコントロールともに秀でていて、しかも指示に無駄がなく、とりわけドラマティックな場面での思い切りの良さが目立った。歌手陣ではトスカ役のエレナ・スティヒナ(ソプラノ)が圧倒的な声量とむらのない豊かな歌唱で舞台を支配、大喝采を浴びた。また英国人の新進のテノール、フレディ・デ・トマーゾのカヴァラドッシとしてのROHデビュー(イギリス人としては60年ぶりらしい)も話題を呼んだ。

 最後に、コロナ禍のロックダウン中も連日無観客配信をし、またその後もロンドンの音楽ホールの中でいち早く再開したウィグモア・ホールで聴いた公演から注目のものをいくつか挙げておこう。なお、11月後半から英国でも再び入国制限が導入されたため、ヨーロッパ大陸からの演奏家やグループが一部来られず、変更や中止になった公演もあった。アンドラーシュ・シフのシューベルトのピアノ・ソナタ変ロ長調 D960についてのレクチャー・リサイタル(11/14)は、長年にわたるこの曲との取り組みの集大成のような公演で、これがストリーミングされ、映像として残されたことは大きな意義がある。シューベルト・ファンは必見である。

一方、英国で聴く機会の少ないマルリス・ペーターゼン(ソプラノ)のリサイタル(11/17)は、「内なる世界 Inner World」をコンセプトに構成されたプログラムで、ふだんあまり聴くこととない歌曲も組み合わせながらきわめてパーソナルな内面世界の旅に誘った。聴衆にダイレクトに語りかけるそのスタイルは女優の芝居のようでもあった。また12月9日のカウンターテナーのフィリップ・ジャルスキーとギターのティボー・ガルシアのリサイタルも同じく〈歌による旅〉であり、さまざまな文化、言語、時代、ジャンルの歌を自在に行き来し、二人の軽妙なトークをまじえた親密な夕べだった。ガルシアの技巧が光ったシューベルトの《魔王》、ロッシーニの超絶技巧アリア〈この胸の高鳴りに〉(《タンクレディ》より)、そしてフォーレやプーランクのしっとりした歌曲やスペイン語のポピュラー歌謡まで、ジャルスキーは艶のある歌唱で満席のウィグモアの聴衆を惹き付けた。

ウィグモアホールでのマルリス・ペーターゼンのリサイタルにて ©Nahoko Gotoh

Biography
後藤菜穂子 Nahoko Gotoh
桐朋学園大学音楽学部卒業、東京藝術大学大学院修士課程修了。音楽学専攻。英国ロンドン大学ゴールドスミス・カレッジ博士課程を経て、現在ロンドンを拠点に音楽ライター、翻訳家、通訳として活動。『音楽の友』、『モーストリー・クラシック』など専門誌に執筆。訳書に『〈第九〉誕生』(春秋社)、『クラシック音楽家のためのセルフマネジメントハンドブック』(アルテスパブリッシング)他。
Twitter @nahokomusic