Aからの眺望 #27
音楽と旅する方法
——ジョナサン・ノットと東京交響楽団の大航海

文:青澤隆明

ⒸN.Ikegami/TSO

 音楽は旅をする。というより、音楽は旅である。どこかからどこかへ向かい、なにかに運ばれ、導かれるように訪ねゆくのならば、それはまさしく旅そのものだ。
 私たちは音楽と旅をする。音楽で、ではなく、音楽とともに、旅をしていく。
 ジョナサン・ノットと東京交響楽団のコンサートの話だ。この5月にも二様の大胆な画布を広げて、聴き手を鮮やかに、遠くまで運んでいった。

 ひとつめのプログラムでは、武満徹の「鳥は星形の庭に降りる」とベルクのコンサート・アリア「ぶどう酒」をたどり、辞世の感慨を宿すマーラーの「大地の歌」へと着地した。マーラーとベルクの時代性、さらに酒や愛の魅惑を通じ合わせるだけでなく、夢と幻を人生に重ねてみれば、武満のシュールな夢想からもすべては繋がっている。禁欲から甘美、諦観への歌のたゆたいを巡って。
 ベルクではソプラノの髙橋絵里、マーラーではメゾソプラノのドロテア・ヤングとテノールのベンヤミン・ブルンスがよく情感を結んだ。「鳥が星形の庭に降りる」のだとすれば、そこから愛と酒で夢の世界へと逃れることを歌うソプラノを経て、「生も死もまた昏い」と歌い出すマーラーのテノールで「大地」に着き、しまいにはアルトで「永遠に」とまなざす。ノットはマーラーの偶数楽章にバリトンではなく女声を採り、その位相に高度をもたらした。

ⒸN.Ikegami/TSO
ⒸN.Ikegami/TSO

 五音音階を象る武満の発想がマルセル・デュシャンの星形に刈り込んだ頭のイメージに結びつくことはおいても、いずれ宙空から庭へ、葡萄酒での高揚へ、そして大地へと降り立つ孤独な心の諦観と辞世という大きな流れである。歌は漂泊者の孤独のようにたゆたい、しかし線的に時を進めていく歩みをとる。生から死へと暮れていくように孤独の黄昏が降りる、そして人の世からの旅立ちは永遠の光を幻視している——。
 夢か現か——。創作者おのおのの人生の明滅が、時代の響きや表現の個性を超え、ひとつの主題に輪を描くように収束していく。響きの上でも喩的に響き合う部分があり、武満でのタイトに引き締まったドライな表現から、歌を得たベルクではさらに漂泊性を高めて芳香を呑み干し、包み込むようにやわらかな響きが優美にマーラーを歌えば、その水墨画的な滲みや陰翳のうちにも、大地は人間の生を受容するように響いてくるのだった。
 5月11日にミューザ川崎で聴き、翌日サントリーホールでもういちど同じプログラムを聴くと、響きの発現も自然と異なってくる。酒造会社のホールだからというわけではないにせよ、後者の音響特性を得て、ゆったりと流れ出る響きがなみなみと空間を満たしていった。

ⒸT.Tairadate/TSO

 こちらが時代を遡行しつつ、人生の神秘と謎に触れるような文学的な標題性をもつプログラムであるならば、もうひとつは一見さらに不可思議とみえる全体構成をとっていた。ベルリオーズの野心作「イタリアのハロルド」、酒井健治のヴィオラ協奏曲「ヒストリア」と、それぞれでヴィオラ独奏が個性的な活躍をみせる。しかも、前者は「交響曲」と銘打たれ、後者は「協奏曲」だが、いずれの内実も一筋縄ではいかない。東響首席ヴィオラの青木篤子がハロルドの主題を奏で、サオ・スレーズ・ラリヴィエールが酒井の自在な音楽史観を快速で精緻に旅する。それから時代を遡行し、イベールの「寄港地」へと赴くのだ。こちらのプログラムは山人の地での死から、いわばイメージの時空交通を経て、生を祝祭する港に着く流れをとる。

 ベルリオーズはイタリア、イベールには地中海の港町を旅する地理的な繋がりがある。「ハロルド」ではバイロンの詩に着想を得た中世の騎士物語を、「ヒストリア」には多様な時代を交差させる音響世界を織りなすという、文学的標題と造型的イメージの極端なコントラストが組み込まれている。だが、大きく性質の異なるこれら3作の旅の時空と響きを、ノットは果たしてどう機能させようとしていたのだろう?

ⒸT.Tairadate/TSO

 5月17日に東京オペラシティで聴いたときは興味深い大胆さはあれ、くっきりと確信がもてない部分も残った。しかし翌日ミューザ川崎で再度体験するうち、曲を進むごとに、独特のプログラミングの革新性にじわじわと惹きこまれていった。端的に言えば、ノットの大冒険はやはり、三者三様に漲る想像力の旅に留まるものではなかった。
 まず、1834年に作曲された「イタリアのハロルド」は先述のとおり、人生と遍歴の物語内容をもつナラティヴの旅である。2019年初演の「ヒストリア」は題名どおり、ヨーロッパ音楽が辿ってきた歴史的な様式や語法を行き来し、音律や和声などの精細な表現においても、めくるめく時空の旅を仕掛ける。初日はヴィオラ独奏ともどもスピードと勢いで駆け抜けた颯爽たる感触が強かったが、翌日のミューザではより克明に響きが聴きとれ、粒子的な音の運動にいたるまで、多様な表現が明瞭に観察できた。

 1920年代のイベールはもっとも明快でわかりやすく、色彩に満ちた想像力が描き出す紀行だ。ローマからパレルモへの航海、チュニス—ネフタ、そしてバレンシアという三様の地理的な旅で、観光的な情趣を鮮やかに広げる。3つのタブローを通じて、海に乗るような水平的な広がりが大らかに発露した。オーケストラの響きも色彩と熱を明朗に出しやすく、作品のラテン性と相まって、全体に祝祭的な大らかさに溢れていた。

ⒸT.Tairadate/TSO

 つまり、18世紀前半のベルリオーズではドラマ性の色濃い線的なストーリーの旅、21世紀の酒井作品では時間軸を歴史的に交差する自由交通を試み、ミクロからマクロまで一種ヴァーチャルな旅で自在に時間を混交して行き、20世紀前半のイベールでは地理的な航海と情緒を大らかに実らせる。
 ドラマ的ナラティヴ、ヒトスリカル、ジオグラフィカルな旅を、この順に辿ることで、旅のイマジネーションを縦横に拡張して織り重ねる様相を呈していった。しかも、最後は祝祭的な熱狂で結ぶのが、ノットのうまいところだ。野心的独創から、知的な設計を経て、観光的情景に熱っぽく寄港してみせたのである。海洋を旅しながらも、ここへいたってようやく着地の感があった。

ⒸT.Tairadate/TSO

 音楽の旅といっても、さまざまなスタイルがある。異なる方法論を多層的に重ね合わせることで、私たちの想像力がどれだけ多様にして多義的で、独創的な方法を試み得るか。ノットの大胆不敵な挑戦はアングルを変えながら、この主題を鮮やかに実らせ、多様な語法を貫くオーケストラ表現への信を証ししていたのである。東京交響楽団が信頼をもってヴィジョンを指揮者とともに具現化したことも特筆すべきで、そうでなければ、どんな挑戦もリスクを冒すだけの価値をもてなくなるものだろう。
 ジョナサン・ノットと東京交響楽団の大航海時代は、決して大風呂敷を広げるのではなく、かように篤い帆を貼り巡らし、さまざまにうねりを上げる音楽の大海原を鋭く風を切って進む。旅の続くかぎり、聴き手の好奇心をいっぱいに乗せ、未知の光景へと熱くスリリングに運んで行くのだ。

東京交響楽団 公演情報

第722回 定期演奏会
2024.7/20(土)18:00 サントリーホール
指揮/ジョナサン・ノット
曲目/
ラヴェル:クープランの墓(管弦楽版)
ブルックナー:交響曲 第7番 ホ長調 WAB 107

第137回 新潟定期演奏会
2024.7/21(日)17:00 りゅーとぴあ 新潟市民芸術文化会館 コンサートホール

指揮/ジョナサン・ノット
曲目/
ラヴェル:クープランの墓(管弦楽版)
ブルックナー:交響曲 第7番 ホ長調 WAB 107

フェスタサマーミューザKAWASAKI 2024 
東京交響楽団オープニングコンサート

2024.7/27(土)15:00 ミューザ川崎シンフォニーホール

指揮/ジョナサン・ノット
曲目/
チャイコフスキー:交響曲第2番 ハ短調 op. 17『小ロシア』
チャイコフスキー:交響曲第6番 ロ短調 op. 74『悲愴』

【Profile】
青澤隆明 あおさわ・たかあきら

音楽評論家。1970年東京生まれ、鎌倉に育つ。東京外国語大学英米語学科卒。主な著書に『現代のピアニスト30—アリアと変奏』(ちくま新書)、ヴァレリー・アファナシエフとの『ピアニストは語る』(講談社現代新書)、『ピアニストを生きる—清水和音の思想』(音楽之友社)。