田中彩子(ソプラノ)インタビュー

interview & text :室田尚子

ウィーンに居を構え、ヨーロッパを中心に南米など世界中で活躍するコロラトゥーラ・ソプラノの田中彩子。類い稀な高音と比類なきコロラトゥーラのテクニックで、名歌手エッダ・モーザーに「人生の中でそう聴けることのない素晴らしい声」と絶賛された経験を持つ。一度でも彼女の歌声を聴いた人ならば、その日本人離れした、いや、人間離れしたとさえ言えるような「天から響いてくる音色」に魅了されることだろう。そんな田中が、このたび、ニューアルバム『Vocalise』をリリース。コロラトゥーラの用いられた歌曲から、ピアノやヴァイオリンの超絶技巧の曲をアレンジしてヴォカリーズで歌ったものまで、彼女の「楽器」を存分に堪能できる1枚に仕上がった。

C)Tadayuki Minamoto


アルバム『Vocalise』について〜コロラトゥーラの新たな可能性

「以前から自分の声の特徴であるコロラトゥーラをよりよく活かすには何ができるか、と考えていました。あまり有名ではない作曲家のコロラトゥーラのための曲なども探して演奏していたんですが、もっと可能性があるのでは、と考えていた時に頭に浮かんだのが、リストやパガニーニの作品なんです。彼らは、ピアノやヴァイオリンという自分の楽器の特徴を最大限に活かすために曲を書いた。特にリストは、パガニーニのヴァイオリン作品をピアノ編曲しています。だったら私も、楽器のための書かれた曲をヴォカリーズで歌ってみたらどうだろう、と思いつきました」

ヴォカリーズとは「母音唱法」とも呼ばれるように、歌詞はなく母音だけで歌う唱法。このアルバムで田中は、パガニーニの「カプリース第24番」や「ラ・カンパネラ」といった超絶技巧で知られる作品から、バッハの「ゴルトベルク変奏曲」、ドビュッシーの「月の光」「星の夜」などたいへん幅広い楽曲をアレンジしてヴォカリーズで歌っている。

「ヴォカリーズは言葉がないので歌詞のある曲より難易度がひとつ上がる感じです。ですから、器楽曲をアレンジしたものは、どれも恐ろしく難しかったのですが、中でもピアノで弾くときはそれほど難しくないのに、声で表現するのはこれほど大変なのかと再認識させられたのが、ゴーティエの『秘密』です。でもそれだけに歌いがいがあって、コロラトゥーラの新たな可能性も感じました。コロラトゥーラはもともと器楽的な音色を特徴としていますし、ある意味楽器の音色を声で表現できる唯一の声種なのではないかと思います」

アルバムを聴く前から、パガニーニなどの超絶技巧をコロラトゥーラで表現するのは親和性が高いだろうな、と思っていたのだが、新たな発見があったのはドビュッシーやゴーティエの作品の方だった。メカニックな印象の強いコロラトゥーラの響きが実に柔らかく、広がりのある音色を実現している。

「オーケストラというキャンバスの中でそれぞれの楽器の音色が絵の具の一つひとつの色であるように、声も音楽というキャンバスの中で他の音色と混ざり合ったり、曲によってはそこから声がふわっと立ち上ってきたり、ということを心がけました。そのために、自分の声の特質を色々な角度から検討し直し、使い方を工夫しています」

ある意味、オペラのプリマドンナ的なあり方とは一線を画す、「コロラトゥーラ・ソプラノ」の新たな可能性を感じさせるアルバムとなっている。


ピアノから歌へ〜コロラトゥーラとの出会い

田中彩子がコロラトゥーラ・ソプラノとして成功するまでの軌跡は、2016年に出版された自身のフォトエッセイ『Coloratura』(小学館)に詳しいが、それによると彼女はもともとピアニストを志していたのだという。

「3歳の時からずっとピアノを弾いてきて、生活の中に当たり前にピアノがあったので、ピアノがない生活は考えられませんでした。ところがある時、自分の手が小さくてピアニストには向かないことがわかったんです。でも音楽以外の進路は考えられないと悩んでいた17歳の時に、バリトン歌手の小玉晃先生と出会い、「君はコロラトゥーラ・ソプラノだね」と私の声を見出していただきました。それで、私は歌の道に進む決意をしたんです」

こうして高校3年生の年に、ウィーン在住の宮廷歌手ミルカーナ・ニコロヴァの元で行われる講習会に参加。生まれて初めての海外、しかもリートとアリアの違いすらわかっていなかった田中だが、一歩ウィーンに降り立った瞬間、「自分がこれまで演奏してきたクラシック音楽はここからきたのだ」と感じたという。そして講習会が終わる頃には「私はここにいるべきだ」という確信めいたものを抱いていたというのだから、まさに彼女にとって、「ウィーン」と「歌」は出会うべくして出会った世界だったのだといえるだろう。ニコロヴァから「歌の道に進みたいなら早い方がいい」といわれ、帰国して高校を卒業後、再びウィーンへ。

「決めたらウジウジ悩まないタイプ。基本的に物事は“やらな”(関西弁のイントネーションで。田中は京都出身)って、即決です」

C)Tadayuki Minamoto

そんな田中が、改めて「プロの歌手としてやっていく」と腹を括ったのは、ウィーンに留学してから4年後、22歳の時に、スイスのベルン州立歌劇場に《フィガロの結婚》のバルバリーナ役でデビューを飾った時だという。

「最初に舞台に立った時、自分が今ここにこうして立つまでにどれだけ多くのプロフェッショナルが仕事を積み重ねてきたのか、ということを考え、自分は自分のするべきことをやらなければならない、という決意のようなものが生まれたんです。この公演は結果的に6ヵ月のロングランになりましたが、その間中ずっと、その思いは抱き続けていました」

いわば「プロフェッショナル」としてどうあるべきかを改めて意識し直し、それを自らの指針として体のうちに持った、ということだろう。その後の彼女は、ウィーン・フォルクスオーパーの舞台に立ったことがきっかけで2012年からオーストリア政府公認スポンサー公演《魔笛》に3年間出演、2013年には南米ブエノスアイレスでコンサート・ツアー、2014/15年にはウィーン・コンツェルトハウスで「カルミナ・ブラーナ」のソリストを務め大成功を収めるなど、まさに破竹の勢いで活躍の場を広げていく。


青少年のために活動していきたい

2019年のNewsweek誌『世界が尊敬する日本人100』に選出された田中彩子。また最近では、「情熱大陸」や「嵐にしやがれ」など日本のテレビに出演したことで、若者の間にも人気が高まっているようだ。十代から海外に飛び出して活躍している田中の姿を見て、若い女性から「進路に悩んでいる」という手紙をもらったりすることもあるのだという。

「もし私の活動が若い方にとって何らかのヒントになっているのだとしたら、これほど嬉しいことはありません。これまで私がウィーンで頑張ってこられたのは、私のことを応援してくれる方たちのために何かを残したい、という思いがあったから。ですから、これからは音楽を通して世界中の青少年のために活動をしていきたいと思っています」

その第一弾として、アルゼンチン国立青少年オーケストラの日本招聘プロジェクトのためのクラウドファンディングを立ち上げた。中南米の様々な人種、環境で育った子どもたちに音楽を通して教育を行うことで生きる希望や可能性を与えようという同オーケストラは、アルゼンチン政府の支援も受け、これまでにプロの音楽家も輩出している。このオーケストラを日本に招き、両国の若者たちの国際交流を通して未来への展望を持ってもらいたい、というのがねらいだ。

「十代の時、私は他の国の音楽に触れることが刺激になったので、今度は私自身がそういうものを発信していきたいんです。音楽の持つパワーは、まだまだ想像を超えるものがあるはずですから」という田中彩子の視線は、はるか未来へと注がれている。


profile
田中彩子(Ayako Tanaka)

10代から、その類いまれなコロラトゥーラの才能を注目され、ウィーンにおいて本格的に声楽を学ぶ。
22歳で、ベルンの州立歌劇場(スイス)において《フィガロの結婚》でソリスト・デビューを飾る。同劇場では日本人初、且つ最年少での歌劇場デビューで大きな話題を集める。翌年、国際ベルヴェデーレ・オペラ・オペレッタ・コンクールではオーストリア代表として参加。以後、ブルガス国立歌劇場(ブルガリア)でのヴェルディの《リゴレット》のヒロイン、ジルダ役でのデビューでは 「透き通るような透明感のある声が素晴らしい理想的なジルダ」と評価され、大成功をおさめた。グスタフ・マーラー没後100周年にはドイツ・ルーマニア合同フェスティバル“Musica Coronensis”に招待され、マーラー 交響曲第4番のソリストとして出演する。
2013年に南米ブエノス・アイレスで行われたコンサート・ツアーでは、「高音は信じられないほど正確、それにもかかわらず響きは柔らかで、まさに天使のよう」と絶賛され、その年のベスト・イベントに選ばれる。音楽史上まれな超高音で有名なモーツァルトのコンサート・アリア「テッサリアの民よ Popoli di Tessaglia! K.316」 をジュネーヴで歌った際は、名歌手エッダ・モーザをはじめとした聴衆から「人生の中でそう聞けることのない素晴らしい声」と賞賛された。
2013/14年にはロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団、ソフィア交響楽団、ストラスブール室内管弦楽団などの定期公演に招待される。2014/15年はウィーン2大コンサートホールの1つ、ウィーン・コンツェルトハウスの大ホールにてオルフの《カルミナ・ブラーナ》でのソリスト・デビューで大成功を収め、2014年11月 エイベックス・クラシックスよりCD「華麗なるコロラトゥーラ」を発売。コンサートに限らず、テレビ・ラジオ・雑誌等でも注目を浴びている。
京都出身、ウィーン在住。

Information
田中彩子 ソプラノ・リサイタル 2019 〜Vocalise〜
2019.10/14(月・祝)14:00
メディキット県民文化センター(宮崎県立芸術劇場) 演劇ホール
10/19(土)15:00 愛知/三井住友海上しらかわホール
10/22(火・祝)13:00 大阪/いずみホール
10/24(木)19:00 札幌コンサートホールKitara(小)
10/28(月)19:00 紀尾井ホール(完売)
http://j-two.co.jp/ayakotanaka/
※各公演の詳細は上記ウェブサイトでご確認ください。

CD『Vocalise』
田中彩子(ソプラノ)
エイベックス・クラシックス
AVCL-25996
¥3000+税
2019.9/25(水)発売