チャイコフスキー《スペードの女王》| 岸純信のオペラ名作早わかり 〜新時代のオペラ作品ガイド 第4回 

text:岸 純信(オペラ研究家)

【あらすじ】
士官ゲルマンは、貴族層の娘リーザと恋仲になる。貧しい彼は、リーザの庇護者の老伯爵夫人から賭け事の秘伝を聞いて一攫千金を夢みるが、老女はあえなく絶命。のちに幽霊姿で秘密を教えにやってくるが、ゲルマンは裏をかかれ、破滅する。

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《スペードの女王》の価値は、3分半ほどの短い序曲からも存分に伝わってくる。僅か数十日間で作品を完成させたというチャイコフスキーの集中力がそこに凝縮されているからだ。切ない心を訴えかける冒頭のモティーフから、スリリングで怪奇的な展開部を経て、偽りなき愛の喜びを示す壮大な終結まで、この作曲家にしか書けない「包み隠さず伝えようとする心」で貫かれた、簡潔かつ雄弁な音運びなのである。

マリインスキー歌劇場公演より
C)N.Razina

原作者はロシアの大文豪プーシキン。ロマノフ王朝の帝都サンクトペテルブルクを舞台に、身分違いの恋を成就させるべく、それまで手を出したこともないカードの賭け事で大金を手にしようと目論んだ青年士官が破滅するまでを描く物語である。ちなみに、原作の短編小説をオペラ化するにあたり、台本作家(作曲者の実弟モデスト)は人生の明暗を際立たせるため、大舞踏会の余興の場を追加。さらには、ドラマにさらなる凄みを与えるべく結末も改変した。小説では青年士官ゲルマンが最後に発狂し、彼が愛したリーザは別の青年と新たな人生を歩むが、オペラではリーザがネヴァ河に身投げし、勝負に失敗したゲルマンは自殺して幕となるのである。

この《スペードの女王》は、ロシア上流階級の「思考法」を知るには好適の一作である。ロシア人なのにロシア語を尊重せずフランス語を喋る貴族社会を背景とするので、気晴らしに民謡を歌い踊る令嬢たちも、家庭教師の厳めしさを陰で笑いながらも、その命には従わざるを得ないのだ。これではやがて革命が起こるのも無理はないだろう。支配者層が母語を蔑むのだから。老伯爵夫人が寝床で口ずさむメロディも、昔、フランスに居たころに覚えたという設定のオペラの名旋律なので、仏語で歌われている。

マリインスキー歌劇場公演より
C)N.Razina

本作の見どころ&聴きどころは数多い。序曲の深遠な境地とは打って変わり、晴天を心から喜ぶ市民のコーラス(ビゼーの《カルメン》に倣って児童合唱が加わる)も印象的だが、リーザと友人ポリーナの愁いを帯びた二重唱やリーザの婚約者エレツキー公爵の堂々たる愛のアリア〈私は貴女を愛しています〉など、抒情的な名旋律も大いに聴き応えがある。さらには、伯爵夫人の亡霊がカードの秘密「3(トロイカ)、7(セミョルカ)、エース(トゥーズ)」をゲルマンに教えるといった戦慄の名場面も盛り込まれ、ゲルマンとの二重唱を経て愛に絶望したリーザが覚悟の入水を遂げる一場も素晴らしく密度が濃い。「オペラを知れば、チャイコフスキーへのイメージが変わる」と納得できる迫力に満ちている。

なお、《スペードの女王》は、近年、「演出で印象が大いに左右されるオペラ」の最右翼になっており、ゲルマンを最初から精神錯乱者とみなす極端なものから、愛し合う男女が破滅に向かうさまを哀しみの視線で静かに見守るステージングまで実に様々。この11月に来日するマリインスキー歌劇場が数年前に初披露した新プロダクション(アレクセイ・ステパニュク演出)では、メタリックな舞台装置が世の無常を表す一方で、エレガントな宮廷衣裳は人間らしい「心の揺れ」を象徴するアイテムに。複層的で見応えある舞台になっている。

マリインスキー歌劇場公演より
C)N.Razina

《スペードの女王》Pikovaya dama(1890)
全3幕のオペラ
台本:ロシア語
作曲者:ピョートル・チャイコフスキー(1840-93)
台本作者:モデスト・チャイコフスキー(1850-1916)

推薦盤
DVD(1992年)
アンドリュー・デイヴィス指揮/グレアム・ヴィック演出
*人物配置から色調まで洗練の極致をゆく演出法であり、指揮者の采配と歌手たちの演唱も表現力の精髄を極めているとしかいいようのない、稀有の名演。

【見どころ&聴きどころ】
序曲(非常に劇的)
第1幕冒頭の市民と子供たちの喜びのコーラス
第1幕のトムスキー伯爵の「カードの秘密を語る」アリア
第1幕のリーザとポリーナのピアノ伴奏による二重唱
第1幕のリーザとゲルマンの二重唱
第2幕のエレツキー公爵の愛のアリア
第2幕の女帝降臨の場の大合唱
第2幕の伯爵夫人の回顧のソロ
第3幕の亡霊出現の場
第3幕のリーザのもの悲しいソロと、リーザとゲルマンとのドラマティックな二重唱

Profile
岸 純信(Suminobu Kishi)

オペラ研究家。1963年生まれ。『音楽の友』『レコード芸術』『ぶらあぼ』『音楽現代』『モーストリー・クラシック』や公演プログラムに寄稿。CD&DVDの解説多数。NHK-Eテレ『ららら♪クラシック』やFM『オペラ・ファンタスティカ』等に出演を重ねる。著書『オペラは手ごわい』(春秋社)、訳書『マリア・カラスという生きかた』(音楽之友社)など。大阪大学非常勤講師(オペラ史)。新国立劇場オペラ専門委員。静岡国際オペラコンクール企画運営委員。