interview & text:高坂はる香
photos:野口 博
国際ピアノ・コンクールを舞台に、若者たちの成長を描いた恩田陸の小説「蜜蜂と遠雷」が映画化され、10月4日に公開される。映像化にあたって重要なポイントとなる登場人物の演奏は、今、日本で注目されるピアニストたちが務めた。
母を失い、表舞台から消えたかつての天才少女、栄伝亜夜の演奏を担当したのは、河村尚子。映画の中で亜夜を演じる俳優の松岡茉優と、作品への想いや撮影中のエピソードをうかがった。
──東京で行われたレコーディングの様子は、松岡さんも客席でご覧になったそうですね。
松岡 はい、河村さんにはその時に初めてお会いして、今日はその時以来です。あれから演奏の映像を何度も見て勉強しました。去年、私は人類の中で、一番河村さんを見た人だと思います(笑)。
河村 出来上がった映画を見て、すばらしいと思いました。身振りやオーケストラとの息の合わせ方など、本当によく観察されたのでしょう。それに実際、観察した動きを自分の体に移すのって難しいんですよね。でも、今回松岡さんの演じる亜夜ちゃんの弾き姿はとても自然でした。
松岡 ありがとうございます。幸せです!
──松岡さんは、ピアノのご経験は?
松岡 12歳くらいまで習っていました。でも私、メトードローズで終わっているんです。レッスンで眠ってしまうような子どもだったので(笑)。
河村 日本の小学校は忙しいから、疲れていたんでしょうね(笑)。ちなみに私はメトードローズは弾いていないんですよ。「子供のバイエル」でした。
松岡 そうなんですね、「子供のバイエル」も私には難しかったです…。
──河村さんは、新作課題曲として登場する藤倉大さんの「春と修羅」を演奏して、いかがでしたか?
河村 難しい曲です。最初の部分はシンプルで、コアなクラシック音楽ファンでなくてもすっと入っていけると思います。でも、そのあとに複雑な部分が待っている…。
松岡 やっぱりプロのピアニストでも難しいんですね。私も楽譜を見て腕の動きを覚えていくにあたって、何度譜面を放り出したくなったことか…。体一つで「三種の神器」をやっているみたいでした。こっちでは料理をして、こっちでは洗濯と掃除をしながら、たまにレンジも開けてみないといけない、みたいな。
河村 両手のリズムが全く違って、それがものすごく複雑に、微妙に変化していきます。それを弾きながら音楽の世界も作らないといけないので、大変でした。1度目の収録のときはテンポが遅すぎたようで、1ヵ月後の東京での収録のチャンスに録り直しました。松岡さんは、その時にホールに来てくださったんですよね?
松岡 はい…もう圧倒されました。特に最後のチリリリリという高音の部分には、森羅万象のようなものを感じました。河村さんの方を見ているのに、目の前には、森や海や昔の原風景など、いろいろなものがチカチカ見えるのです。
河村 確かにそういうパワーのある作品です。
松岡 それに、4人のピアニストが全く違う弾き方をしているんです。カデンツァが別々なのはもちろん、他の部分も表現が違います。一度撮影の現場で、私のシーンなのに、間違ってマサルの「春と修羅」が流れたことがあるのですが、すぐに違うとわかりました。音楽ファンのみなさんにとっては、聴き比べが本当に楽しいんじゃないかと思います。
河村 「春と修羅」のシーンはかなり長く時間がとられていますよね。
松岡 私、高島明石がどうやって「春と修羅」のカデンツァを作ったかが原作の中でも大好きなところなんです。映画でも素敵に描かれています。
河村 あのシーンは印象的でしたね。
【参考動画】「春と修羅」(藤倉大作曲)特別映像
──松岡さんは、亜夜をどんな人と捉えて演じたのですか?
松岡 天才の役を演じるときって、キャラクターとしての天才として捉えると薄くなってしまうんです。天才って、周りが言うだけで、自分で自分のことを天才とは思っていませんから。そこで私は今回亜夜を演じるにあたって、水族館の水槽の分厚いガラスを自分の周りに想像することにしました。私は普段、人の表情とか反応をすごく気にするほうなのですが、亜夜はそこには興味がありません。人の表情の機微は見えていない。目の悪い人がコンタクトを外したような状態です。私も実際、大勢の中に入るシーンではコンタクトを外して、人との交信をシャットアウトし、見えない聞こえない知らないという状態を感じてみました。亜夜は他の人の音にもそこまで興味がありません。でも、そこにすっと入ってきた風間塵の音に反応して、物語が動いていくんですよね。
──俳優さんはそうやっていろいろな人生を体験して、何人分も生きているかのようですね。
松岡 その感覚って人によって違って、ある先輩は、自分がマンションになったように、いろいろな役柄が自分の中に住んでいるとおっしゃっていました。私はそんなに器用じゃないので、特別に手放したくない役柄以外は、毎回成仏してもらっています。だからこそちゃんと巣立ってもらえるように、しっかり“彼女”の声を聞きたいし、“彼女”がやりたくないことは絶対にやりたくないと思っています。
──今回はピアニストを一度ご自分の中に入れる体験をし、どんな仕事だと思いましたか?
松岡 感覚として俳優と近そうだと思えたのが、お客さんとの関係の変化です。亜夜は予選の間、お客さんのことは、それこそ水槽の奥の水草のように捉えていて、こう感じてもらいたいと思うよりは、ひたすら自分の演奏をしている状態です。でも本選で初めて、お客さんの反応に返す楽しみを感じるようになります。私は、亜夜はようやくそこで、孤高の天才少女からエンターテイナーになったと思いました。
私も初めて舞台に出演した時、あまりの緊張でお客さんが全く見えなくて、ただ群青色に見えるのです。でもそれから何度か舞台を踏むうち、今ではお客さんの気分を感じながら、今日はこうしてみようと考えて楽しくできるようになりました。ピアニストにも、そうやってお客さんに反応できるようになるまでの変化があるのではないかと思ったんです。…河村さん、その点いかがでしょうか(笑)?
河村 コンサートは、一曲ごとにお辞儀をして拍手をいただいてまた演奏する繰り返しなので、お辞儀をするときにお客様の表情を見て、感じてそれに反応します。コンクールの場合は、間に拍手が入らないこともあるので、少し特殊ですけれど。
──そのあたりの表現者と観衆の関係の話って、「無人島で一人で生きることになったときにピアノがあったら、弾くか弾かないか」という話とつながりますね。ピアニストに聞くと、意見が別れますが。
松岡 それ、俳優も同じかもしれません…。
──松岡さんは、観る人がいなくても演じますか?
松岡 私はやりません。でも、無人島で一人でもやる人のほうが天才なんだろうと思います、私は。
──亜夜のように、大好きでやっていたことなのに、なぜやっているのかを悩むようなスランプの経験はありますか?
松岡 あります。私の中で一番お芝居がおもしろかったのは、オーディションには受からないけれど、毎週事務所のお芝居のレッスンに通っていた中高生のときです。仕事でもなく、お客さんがいるわけでもなく、自分のため、与えられたプロットを演じている時が一番楽しかった。その時の気持ちを、お芝居をする意味が一番わからなくなっていたときに、ミュージカルの『ジャージー・ボーイズ』を観て思い出したんです。あ、これ知ってる、私もすごく楽しかったんだって。それで今は、落ち着いています。
──乗り越えたのでしょうか?
松岡 乗り越えたのかな? ガサガサだった大地が、若干水を得て歩ける状態になった感じです。やっぱり責任もありますから、毎日ただ楽しいというわけでもありません。
──河村さんも、そういう時期はありましたか?
河村 ありましたよ。10代の頃は感覚的に弾いていたものが、作品の解釈はこうあるべきだということを意識するようになって、自分の感覚との間にちぐはぐなものを感じ、筋の通った演奏ができないことに戸惑いを覚えました。10代のときに軽々と弾けていたものが、急に弾けなくなったりするんです。それでも舞台に立って、失敗も含む経験を重ねていくうちに、自分の音楽を見つけ出すのだと思います。
乗り越える経験は、死ぬまであると思います。それでも、好きだからやり続けているんだと思うんです。すごく好きで、自分ができるものだから。
──お二人はこの映画を、どんな人に届けたいですか?
松岡 クラシック音楽が好きな人はもちろん、クラシック音楽に遠い方にも観ていただきたいです。それぞれのバックボーンを持つピアニストが、それぞれの戦い方でコンクールに臨み、全く違う演奏をしています。天才たちが集ってしまったことの化学反応を、少年漫画を読むように楽しんでいただきたいです。今回、この作品のおかげでクラシック音楽を生で聴く機会があったのですが、今まで聴いた音楽の中で、一番自分の血液に近い感じがしました。自分の中にずっとあったような、懐かしい感覚がしたのです。すばらしい演奏を、映画館の大きな音で、体になじませながら楽しんでいただけたら嬉しいです。
河村 心理的な描写も細やかな映画ですから、進路に悩んでいるような方は、音楽に全く関係がなくても楽しめると思います。そして音楽のパワーを感じ、クラシックっていいなと思っていただけるのではないかでしょうか。ホールともまた違う、映画館ならではの迫力ある音で楽しんでいただきたいです。
profile
松岡茉優(Mayu Matsuoka)
1995年2月16日生まれ、東京都出身。
近年の主な出演作は映画『ちはやふる』3部作(16・18/小泉徳宏監督)、映画初主演を果たした『勝手にふるえてろ』(17/大九明子監督)、『blank13』(18/齊藤工監督)、第71回カンヌ国際映画祭パルムドールを受賞した『万引き家族』(18/是枝裕和監督)。第42回日本アカデミー賞では、優秀主演女優賞そして優秀助演女優賞を受賞した。公開待機作に映画『蜜蜂と遠雷』(10月4日公開/石川慶監督)、映画『ひとよ』(11月8日公開/白石和彌監督)などがある。
河村尚子(Hisako Kawamura)
ミュンヘン国際コンクール第2位、クララ・ハスキル国際コンクール優勝。ドイツを拠点に、リサイタルのほか、ウィーン響、バイエルン放送響などにもソリストとして客演。日本ではP.ヤルヴィ指揮N響など国内主要オーケストラとの共演や、ヤノフスキ指揮ベルリン放送響、ビエロフラーヴェク指揮チェコ・フィル等の日本ツアーにも参加。文化庁芸術選奨文部科学大臣新人賞ほか受賞多数。レコーディングは、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ「熱情」等を収めた最新譜が10月2日に発売予定(RCA Red Seal)。現在、ドイツのフォルクヴァング芸術大学教授。
オフィシャルHP http://www.hisakokawamura.com/
Information
映画『蜜蜂と遠雷』
2019.10/4(金)全国公開
原作:恩田 陸「蜜蜂と遠雷」(幻冬舎文庫)
監督・脚本・編集:石川 慶
出演:松岡茉優、松坂桃李、森崎ウィン、鈴鹿央士(新人)
配給:東宝
Ⓒ2019 映画「蜜蜂と遠雷」製作委員会
https://mitsubachi-enrai-movie.jp/
CD『映画「蜜蜂と遠雷」
〜 河村尚子 plays 栄伝亜夜』
ソニーミュージック
SICC-39031
¥3000+税