バッハの偉大なる遺産に身も心も委ねる一日
韓国を代表するチェロ奏者であるヤン・スンウォンが、バッハの無伴奏チェロ組曲全曲演奏会を開く。この夏に50歳の誕生日を迎えたベテラン。現在はソウルとパリを本拠に活動している。
無伴奏チェロ組曲には、あるパラドックスを感じているという。
「非常に緻密な細かさと平明で率直な表情とが並存しているのです。バッハの作品にはいつもこのパラドックスがあります。深遠でありながら、けっして暗くない、希望や勇気を与えてくれるような明白さ。それをどう伝えられるかを常に心がけています」
無伴奏チェロ組曲はバッハの自筆譜が残っておらず、アンナ・マグダレーナ夫人の写本などが原資料となるが、しばしばそのスラーの指示の奇異な部分が問題になる。バッハの意図なのか、筆写者の誤記なのか。
「でもそれは逆に、チェリストにとって神の恵みです。自筆譜がないからこそ、研究しなければならない欲求にかられて、自分たちのイマジネーションを豊かにしながら解釈することができますし、そうあるべきです。自筆譜が現存する無伴奏ヴァイオリン・ソナタを弾くヴァイオリニストたちは、我々ほど自由な好奇心で解釈できないかもしれませんね(笑)。ただし、もちろんスラーは大事です。バッハの意図を慎重に読み取って、楽譜に命を吹き込むのが私たちの仕事です」
全6曲を、第1番ト長調-第4番変ホ長調-第3番ハ長調、休憩を挟んで第5番ハ短調-第2番ニ短調-第6番ニ長調と並べた順番にはもちろん意図がある。
「ト長調から変ホ長調というカラーの変化はとても魅力的です。その変ホ長調の第4番は、チェロとの関係においてほとんど神秘的と言えます。他の5曲はすべてチェロの開放弦に基づいた調性(G、C、D)で書かれているのに、E♭だけが例外だからです。そのあとで聴く自然なハ長調はとても美しく響きます。
プログラム後半は暗いハ短調のプレリュードで始めます。その終曲の洗練されたジーグは、自ずと内面的でメランコリックなニ短調の第2番を導き、そして最後にブリリアントなニ長調となります」
一晩で全曲を聴くのは、世界遺産観光のためにエジプトやギリシャまで出かけるのと同じような贅沢な体験だという。
「現代人はインターネットの動画配信を見るのでさえ5分以上は費やしませんから(笑)、バッハの全曲となると必ずしも心地良いだけではないのかもしれませんが、その時にしか経験できないパワフルな瞬間です。日常のすべてを忘れて、偉大な演奏家たちによって受け継がれてきた300年前の贈り物に、どうぞ耳を傾けてください」
取材・文:宮本 明
(ぶらあぼ2017年10月号より)
ヤン・スンウォン チェロ・リサイタル バッハ:無伴奏チェロ組曲 全曲演奏会
2017.10/19(木)18:00 Hakuju Hall
問:ヤタベ・ミュージック・アソシエイツ03-3787-5106
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