
文:小宮正安
「12月31日」という日めくりカレンダーをぺりっとはがせば、「12月32日」という日付が登場。ウィーン国立歌劇場の『こうもり』でおこなわれる定番のギャグであって、毎度のように、どっと客席が笑いで包まれる…。非常に象徴的な光景だろう。新しい年が始まるところで、古い年がそのまま続いてゆく。しかもお馴染みの演出となれば、これはもうウィーンの「伝統」を端的に物語るものに他ならない。
たしかに、年の暮れから新年にかけてのウィーンは、街自体がそうした「伝統」を音の上だけでも否応なく感じさせてくれる。なにしろ12月31日の大晦日(現地ではこの日にゆかりのカトリックの聖人の名前にちなんで「ジルヴェスター」とよばれている)は、年忘れの日ということで、街中が大騒ぎ。中心街のさらに真ん中にそびえたつシュテファン大聖堂の前には、午後ともなれば人々が集まり始め、彼等を目当てにホットワインや、ジャガイモを薄く伸ばした巨大な揚げせんべい(ランゴシュという)を売る屋台が立ち並んで気分は上々。0時を告げる鐘の音とともに、爆竹が鳴らされ、花火が上がり、お祭り気分は最高潮に達する。

実のところ、12月31日にウィーン国立歌劇場で《こうもり》が演奏される理由にも、こうした背景がある。普段は格式の高いオペラやバレエを専ら上演しているこのオペラハウスだが、ウィーン中がお祭り気分に湧き返るこの日は、肩肘張らないオペレッタで演奏者も観客もともに楽しみましょう、という趣向に他ならない。以前筆者が観劇した時は、この作品のハイライトともいえる第2幕の舞踏会のシーンで、本物のシャンパンがポンポンと抜かれ、劇場中にかぐわしい酒の香りが漂ったこともある。
それでは、そんなお祭り騒ぎの次の日はどうなるか。前日までの狂騒が嘘のように、街全体が静まり返る。オーストリアでは日曜日や祝日にはほとんどの店が閉まるが、1月1日も祝日であるため、例外ではない。また多くのレストランも営業しないため、個人旅行などをしていると、食事をとり損なうことも。(なお今回のようなきちんとしたパック旅行であれば、そうした心配はないので、ぜひともご心配なく!)1年のはじめを心を落ち着けて迎えましょうということで、それこそシュテファン大聖堂をはじめとする様々な教会ではミサが執り行われ、敬虔な空気の中で新年がスタートする。

つまり同じ街であるにもかかわらず、たった一日だけで、いやたった数時間だけで、すべてががらりと変わる。音楽でいえば、フォルテの熱狂がピアノの静謐にすとんと変わるようなもの。しかもそうした静謐の中では、まだまだ寒い時期であるにもかかわらず、遠くから鳥のさえずりが聞こえてくる。木々を揺らす風の歌も感じられる。街が織りなすドラマティックな交響曲といった趣で、文字通りオペラの世界にも通じるものだ。
だが、そんな静かな日にもかかわらず、いやものみながひっそりと息を鎮めてしまう特別の日だからこそ、ウィーン国立歌劇場では前夜と同じく《こうもり》が上演される。しかも1月1日に《こうもり》が上演されるようになったのは、1960年以来のこと。当時このオペラハウスの総監督として君臨していたスター指揮者のカラヤンが始めたものなのだ。1869年に誕生したウィーン国立歌劇場(開設当初はウィーン宮廷歌劇場)の150年以上に及ぶ歴史の中で、およそ90年を経てから初めておこなわれた試みだった。
さらには《こうもり》そのものが上演されるようになったのも、劇場が開設されてから25年を経た1894年のこと。ヨーロッパに冠たるオペラハウスで、庶民的なオペレッタが取り上げられるにいたるまで、そこまで時間がかかったということだろう。(なおこの年は、当オペレッタの作曲者であり、今年生誕250年を迎えた「ワルツ王」シュトラウスⅡ世がデビューしてから50周年という記念の年であり、それも当劇場で《こうもり》が上演される重要なきっかけとなった)

つまり、昔から続く「伝統」だと思われていたものが意外にもそうではない、というのもウィーンの特徴なのだ。またそうした意味では、大晦日のいわば前哨戦!?として、これまたウィーン各所で催されるクリスマス市も、ここ20年ほどの間にこの街で広まったもの。つまり、まごうことなき確固とした伝統の上で新たな挑戦がおこなわれ、それがやがて根を下ろして、さらなる伝統の地層を形作ってゆく。またそれこそが、この街ならではの多様な文化の上に成り立つ「伝統」なのだろう。
なお2025年/26年の年末から年始にかけておこなわれるウィーン国立歌劇場の《こうもり》には、飛ぶ鳥を落とす勢いのカウフマンが、同歌劇場では初めてとなる三枚目ヒーローのアイゼンシュタイン役で登場する。ワーグナー等のオペラにおいては珠玉の二枚目ヒーローで一世を風靡するとともに、ドイツ語圏の懐メロポップにも才能を発揮する新しいタイプのスター歌手。そんな彼の登場もまた、ウィーンの伝統に新たな伝統が築かれる見逃せない、聞き逃せない瞬間となるに違いない。

クオリタ音楽鑑賞デスク ヨハン・シュトラウス2世生誕200周年特集ページ
株式会社クオリタ 音楽鑑賞デスク
TEL:050-1746-3882
〒160-0023 東京都新宿区西新宿1丁目17-1 日本生命新宿西口ビル3階
営業時間:平日11:00~19:00
※土曜・日曜・祝日 定休

