
80歳を超えて歌った歌手はいても、その年齢で最高峰の歌を披露した歌手は、過去にいなかったと思う。ヌッチの前には。長年、「世界最高峰のバリトン」と讃えられてきたヌッチ。昨年2月に82歳を間近にして聴かせてくれた歌の数々も、紛れもない世界最高峰だった。
盤石のテクニックに支えられた圧倒的な声力が、いまも保たれていること自体、信じがたい。一方、歌に込められる感情は、リゴレットの憤怒や悲嘆も、《椿姫》のジェルモンの傲慢さや慈愛も、驚くほど深化していた。だれの歌よりも味わい深く、味わいが常識を超えた声力と相まって倍加し、聴きながら終始、心を激しく揺さぶられた。
バリトンがどう、歌手がどう、という次元を超えて、人間の底知れぬ力を見せつけてくれたヌッチ。今回、十八番の《リゴレット》と《椿姫》のハイライトでイタリアの俊英歌手2人と競演し、その力をもう一度だけ聴かせてくれる。一人の人間の潜在力はどこまで大きいのか。その問いへの一つの回答はヌッチにある。
文:香原斗志
(ぶらあぼ2025年10月号より)
レオ・ヌッチ(バリトン) 最後の来日
2025.11/9(日)13:30 サントリーホール
問:楽天チケット ticket-concert@mail.rakuten.com
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香原斗志 Toshi Kahara
音楽評論家。神奈川県生まれ。早稲田大学卒業、専攻は歴史学。イタリア・オペラなどの声楽作品を中心にクラシック音楽全般について執筆。歌声の正確な分析に定評がある。日本ロッシーニ協会運営委員。著書に『イタリア・オペラを疑え!』『魅惑の歌手50 歌声のカタログ』(共にアルテスパブリッシング)など。歴史評論家の顔もあり、近著に『お城の値打ち』(新潮文庫)。

