世界を魅了した「ワルツ王」――ロシアのヨハン・シュトラウス
ウィーンで生まれウィーンで死んだヨハン・シュトラウス。いまもウィーンっ子から熱烈に愛される、“ウィーンの作曲家”の筆頭です。
そんなシュトラウスが、ウィーン以外にも拠点としていた都市がありました。それはロシアのパヴロフスク。やや意外な気もします。
当時のロシアの首都サンクトペテルブルクから30キロほどの郊外にあるパヴロフスクには皇族の夏の離宮があり、富裕層の別荘地としても賑わっていました。 1837年にはサンクトペテルブルクとの間にロシア初の鉄道が開通しています。鉄道会社が収益を上げるために観光開発に力を入れるのは現代と同じで、豪奢な設計のパヴロフスク駅舎は、コンサートホールや舞踏会場の機能も備えていました。

作家:Adolf Jossifowitsch Charlemagne
そこに招かれたのがヨハン・シュトラウス。1856年から1865年まで毎年訪れています。しかも契約は、毎年5月から10月までという長期間の滞在。つまり30歳から40歳までの10年間、1年のほぼ半分をパヴロフスクで過ごし、作曲し、毎日のように駅舎で演奏していたのです。パヴロフスクで、あるいはパヴロフスクで演奏するために、多くの作品が生まれています。「トリッチ・トラッチ・ポルカ」「常動曲」「ペルシャ行進曲」などの人気曲もその一部です。
報酬は莫大で、10年目の1865年には4万ルーブル。これは当時のオーストリアの通貨グルデンなら約8万グルデン、現代の貨幣価値に換算すると400万ユーロとも言われます。ざっくり6億円! です。
その頃まだ独身だったシュトラウスが、ロシア貴族の娘オルガ・スミルニツカヤと恋に落ちたこともわかっています。シュトラウスは彼女を「いたずらな妖精(der Kobold)」という愛称で呼んでいたのですが、二人に別離が訪れる前年の1859年には、パヴロフスクのために同名のポルカ・マズルカが作曲されています。
1971年にはこの恋物語を描いたロシア映画『ヨハン・シュトラウス/白樺のワルツ』も製作されており(日本公開1972年)、こんなところにも、その後のロシアでのシュトラウス人気の一端をうかがうことができそうです。

(1837~1920)
目次
Page 1……トップページ
Page 2……実は“ウィーン生まれ”じゃない⁉ ウィンナ・ワルツ
Page 3……会議も踊った!ウィーンのダンス熱
Page 4……J.シュトラウスⅡ世ってどんな人?――大衆音楽を芸術に高めたカリスマ
Page 5……先代はろくでなし? 骨肉あいはむ父子勝負!
Page 6……わずか18歳、鮮烈なデビュー・コンサートで大成功!
Page 7……世界を魅了した「ワルツ王」――ロシアのヨハン・シュトラウス
Page 8……1939年、ウィーン・フィル ニューイヤーコンサートがスタート
Page 9……著者プロフィール&関連記事