ニューイヤーをもっと楽しめる!「ワルツ王」ヨハン・シュトラウスⅡ世の“トリビア”集【生誕200年記念】

先代はろくでなし? 骨肉あいはむ父子勝負!

 いまさら言うまでもなく、ヨハン・シュトラウス (II世)の同名の父親ヨハン・シュトラウス (I世)(1804〜1849)も人気作曲家でした。ウィーンのニューイヤー・コンサート恒例の、客席が手拍子するアンコール曲「ラデツキー行進曲」は父シュトラウスの代表作です。

ヨハン・シュトラウス(Ⅰ世)
(1804〜1849)

 「父子二代で音楽家」というと父親による英才教育を想像するかもしれませんが、さにあらず。そもそも父シュトラウスは、父親としてはなかなかのろくでなしで、外に愛人を作って家庭を顧みないような男だったのです。ヨハンが10歳の頃には、家にはほとんど寄りつかず、生活費を入れるだけの関係になっていました。
 ヨハンは父を憎み、不憫な母親のためにも、同じ音楽家となって父のライバルになることを決心します。もちろん、生まれながらの才能に加えて、幼い頃は自宅でリハーサルを重ねる父を間近に見て育ったので、素養にはこと欠きません。さらに母も協力して、父には隠してヴァイオリンや作曲を学びました。

母 マリア・アンナ・シュトレイム
(1801~1870)

 1844年。18歳のヨハンは自分の楽団を率いてデビュー・コンサートを開きます。すでに人気作曲家だった父シュトラウスへの挑戦状。しかしこの父、息子を新たなライバルと認めたからこそなのかもしれませんが、コンサートの開催を妨害したというのですから、やっぱりなかなかのろくでなし。顔のきく演奏家やダンス・ホールに、息子に協力しないように圧力をかけたり、新聞記者に金を渡して中傷記事を書かせようとしたり。やや卑怯ではあるものの、ガチの真剣勝負で受けて立ちます。
 しかしそんな“骨肉の争い”がかえって噂好きな人々の関心を集めたのかもしれません。10月15日に開いたデビュー・コンサートは大入り満員の大成功をおさめるのでした。

目次

Page 1……トップページ
Page 2……実は“ウィーン生まれ”じゃない⁉ ウィンナ・ワルツ
Page 3……会議も踊った!ウィーンのダンス熱
Page 4……J.シュトラウスⅡ世ってどんな人?――大衆音楽を芸術に高めたカリスマ
 Page 5……先代はろくでなし? 骨肉あいはむ父子勝負!
Page 6……わずか18歳、鮮烈なデビュー・コンサートで大成功!

Page 7……世界を魅了した「ワルツ王」――ロシアのヨハン・シュトラウス
Page 8……1939年、ウィーン・フィル ニューイヤーコンサートがスタート

Page 9……著者プロフィール&関連記事