ニューイヤーをもっと楽しめる!「ワルツ王」ヨハン・シュトラウスⅡ世の“トリビア”集【生誕200年記念】

わずか18歳、鮮烈なデビュー・コンサートで大成功!

 1844年10月15日火曜日。18歳のヨハン・シュトラウスはシェーンブルン宮殿のすぐ近くにあったドムマイアー・カジノでデビュー・コンサートを開催、大成功をおさめます。
 600人を収容できる会場でしたが、チケットはソールドアウト。事前の告知では「ダンスの夕べ」と銘打っていたので、もともとは舞踏会形式でやるつもりが、立錐の余地のない超満員になったために、早々にコンサート形式に切り替えたということなのでしょう。

現在は「ドムマイアー」の名を冠するカフェが営業中、
その前にはシュトラウスの記念碑が立てられている
©Herzi Pinki

 評判を呼んだのは、この日のために書き下ろしたヨハンの音楽。ワルツ「どうぞごひいきに」作品4、ポルカ「心ゆくまで」作品3、「デビュー・カドリーユ」作品2、そしてワルツ「記念の歌」作品1。いかにもデビュー公演らしい初々しいタイトルの作品が並んでいます。なかでも「記念の歌」では拍手が鳴り止まず、なんと19回も繰り返して演奏したというのだから、規格外の成功です。

 しかし、一夜にしてスターになれるほど甘い世界ではありませんでした。対立している初代「ワルツ王」である父ヨハン・シュトラウス(1804〜1849)の威光は、そんなことでかすむことはなかったのです。さすがです。ヨハンのデビュー後も快進撃は続きます。父はウィーン中のダンス・ホールと次々に契約を結び、自らの楽団を率いて出演。1846年にはついに宮廷舞踏会音楽監督にまで昇り詰めたのです。
 結局、息子ヨハンが名実ともに「ワルツ王」となるのは1849年に父シュトラウスが死んでから。なかなか超えられなかった憎っくき父親。しかしその壁を越えようとする努力や工夫が、ヨハンを大きく成長させたこともまちがいないでしょう。

目次

Page 1……トップページ
Page 2……実は“ウィーン生まれ”じゃない⁉ ウィンナ・ワルツ
Page 3……会議も踊った!ウィーンのダンス熱
Page 4……J.シュトラウスⅡ世ってどんな人?――大衆音楽を芸術に高めたカリスマ
Page 5……先代はろくでなし? 骨肉あいはむ父子勝負!
 Page 6……わずか18歳、鮮烈なデビュー・コンサートで大成功!
Page 7……世界を魅了した「ワルツ王」――ロシアのヨハン・シュトラウス
Page 8……1939年、ウィーン・フィル ニューイヤーコンサートがスタート

Page 9……著者プロフィール&関連記事