ニューイヤーをもっと楽しめる!「ワルツ王」ヨハン・シュトラウスⅡ世の“トリビア”集【生誕200年記念】

会議も踊った!ウィーンのダンス熱

 ウィーンのダンス・シーンは、父ヨハン・シュトラウス(1804〜1849)が活躍を始めた頃にはすでに活況を呈していました。ナポレオン後のヨーロッパの秩序再建を目的に、1814年に各国首脳が集まって開催されたウィーン会議が、なかなか成果を出せずにだらだらと長引き、「会議は踊る、されど進まず」と評されたエピソードは有名です。晩餐会や音楽会、舞踏会などの接待外交に明け暮れる首脳たち。それを象徴するキーワードが「踊る」だったのです。ウィーンの街はダンス・ホールだらけでした。

「踊る会議」を描いた風刺画

 ウィーン会議の少しあとの統計ですが、父シュトラウスがライバルのヨーゼフ・ランナー(1801〜1843)としのぎを削っていた時期である1832年には、謝肉祭の期間中だけで772もの舞踏会が開かれ、当時のウィーンの人口の半数に当たる20万人が踊りに熱狂していたのだとか。ヨーロッパ有数の大都市で人口の半数って、異常です。
 会場の規模もすごかった。たとえば1808年にオープンした「アポロザール」という有名なダンス・ホールは、大小複数の舞踏室を備え、6,000人を収容できたといいます。20世紀の日本のバブル末期を象徴する世界最大級の巨大ディスコ「ジュリアナ東京」のキャパが2,000人ですから、その規模は圧倒的です。

舞踏会の様子を描いた絵画
右上中央がランナー、その2人左の奏者が父シュトラウス
作者:Charles Wilda

 そんなダンスに熱狂する土壌の中で、さっそうと登場したヨハン・シュトラウスの音楽は絶大な人気を獲得します。そして娯楽のための音楽だった舞踏音楽は、彼の作品によって、交響曲などのシリアスな音楽にまったくひけをとらない、世界の一流オーケストラがこぞって演奏する芸術作品として認知されてゆくのです。

目次

Page 1……はじめに
Page 2……実は“ウィーン生まれ”じゃない⁉ ウィンナ・ワルツ
 Page 3……会議も踊った!ウィーンのダンス熱
Page 4……J.シュトラウスⅡ世ってどんな人?――大衆音楽を芸術に高めたカリスマ
Page 5……先代はろくでなし? 骨肉あいはむ父子勝負!
Page 6……わずか18歳、鮮烈なデビュー・コンサートで大成功!
Page 7……世界を魅了した「ワルツ王」――ロシアのヨハン・シュトラウス
Page 8……1939年、ウィーン・フィル ニューイヤーコンサートがスタート

Page 9……著者プロフィール&関連記事