J.シュトラウスⅡ世ってどんな人?――大衆音楽を芸術に高めたカリスマ
生誕200年。“ワルツ王”ヨハン・シュトラウス(II世)は1825年10月25日に生まれました。生家の場所は「ウィーン郊外」とされることが多いですが、これは当時まだ旧市街を囲んでいた城壁の外側だったため。現在の感覚ならほぼウィーンの中心部と言ってよいでしょう。王宮から見てマリア・テレージア広場の裏手、近年観光名所にもなっている美術館群「ミュージアム・クォーター」などがある地区です。
ウィーンではまだぎりぎりベートーヴェン(1770〜1827)やシューベルト(1797〜1828)が活躍していた時代に、彼らと入れ替わるように生まれてきたシュトラウス。作曲家としてのありようもベートーヴェンらとは少し違っていました。
シュトラウスのほぼすべての作品はワルツやポルカなどの舞踏音楽。彼はそれを、自らの楽団を率いて、実際に舞踏会の会場へ出向いて行って演奏したのです。自分のバンドで自分のオリジナル曲を演奏する現代のミュージシャンのイメージに近いかもしれません。

いわば大衆のための音楽。それを大作曲家たちのシリアスな作品に負けない芸術音楽として認めさせたのがヨハン・シュトラウスです。それが彼の音楽の素晴らしさゆえであるのはまちがいありませんが、人々の熱狂的な支持を集めたのには、マーケットを見きわめる、卓越したセンスも大いにものを言ったように見えます。
まずは多民族都市ウィーンらしい視点。当時のウィーンには、人口の20%を占めるボヘミア人・モラヴィア人(チェコ)を始め、ハンガリー人やスロヴァキア人など、多くの民族が暮らしていました。とくに活動初期に、「チェコ・ポルカ」(1845)、「セルビア ・カドリーユ」(1846)、「ペスト・チャルダーシュ」(1846)、「スラヴ・ポプリ」(1847)のように、ウィーンに住む周辺の諸民族を新たな聴衆として取り込むような作品をつぎつぎに発表しています。いわばインバウンド需要を見込んだ取り組みです。そもそもダンス自体、ポルカはチェコ、マズルカはポーランド、チャールダーシュはハンガリーから入ってきたものです。
もうひとつ。“時事ネタ”ともいうべき作品の数々です。ウィーン市街を囲んでいた城壁の上で皇帝の暗殺未遂事件があれば「皇帝フランツ・ヨーゼフ救命祝賀行進曲」(1853)を書き、都市改造でその壁を解体することになれば「城壁徹去ポルカ」(1862)を発表。工業技術が著しく発達していた時代を背景に、蒸気機関車の加速を模した「加速度ワルツ」(1860)、鉄道の発展も手伝って普及してゆく電信をテーマにした「電報ワルツ」(1867)など、社会の流行をいちはやく取り入れた作品は、まるで彼の生きた時代を映すようです。きっと現代のSNS的な感覚を持っていた人なのでしょう。そんな姿勢にも多くの人たちが共感して、シュトラウスはカリスマ的なスター作曲家になっていったのです。

作家:Johann Josef Reiner
目次
Page 1……トップページ
Page 2……実は“ウィーン生まれ”じゃない⁉ ウィンナ・ワルツ
Page 3……会議も踊った!ウィーンのダンス熱
Page 4……J.シュトラウスⅡ世ってどんな人?――大衆音楽を芸術に高めたカリスマ
Page 5……先代はろくでなし? 骨肉あいはむ父子勝負!
Page 6……わずか18歳、鮮烈なデビュー・コンサートで大成功!
Page 7……世界を魅了した「ワルツ王」――ロシアのヨハン・シュトラウス
Page 8……1939年、ウィーン・フィル ニューイヤーコンサートがスタート
Page 9……著者プロフィール&関連記事