来日中のピアニスト、アンドラーシュ・シフが12月12日、都内で会見を行った。9月に足の骨折でBBCプロムスへの出演キャンセルなどもあり心配されたが、会場に元気な姿をみせた。今回はソロリサイタルで、13日の高崎公演を皮切りに7公演が進行中だが、この日の会見では、来年3月に予定されている自身の室内オーケストラ「カペラ・アンドレア・バルカ」の6年ぶり日本公演について語った。
3月は中国、日本、韓国をめぐるアジアツアーで、約半月で計11公演のハードスケジュール。ウィーン・コンツェントゥス・ムジクスやモザイク弦楽四重奏団のメンバーとしても知られるエーリッヒ・へーバルト(ヴァイオリン)ら、シフと長年共演を重ねてきた腕利きのソリストや室内楽奏者たちが参加する。仲間たちと結成したグループについて、改めて立ち上げの経緯から紹介してくれた。
カペラ・アンドレア・バルカは1990年代の終わり、ザルツブルクでの音楽祭「モーツァルト週間 Mozartwoche」を契機として創設された。そこには、同じハンガリー出身で、シフのキャリアにおいて最も大きな影響を受けた音楽家でもあるシャーンドル・ヴェーグ(1912-1997)の存在があったという。
「私は、ヴェーグと彼の『カメラータ・アカデミカ』とモーツァルトのピアノ協奏曲を全曲演奏し、レコーディングする幸運に恵まれました。それは私にとって最も幸せな思い出でもあり、1997年に彼が亡くなった時には、もうモーツァルトの協奏曲は演奏したくないとまで思ったのです。その記憶があまりにも美しく、一緒にモーツァルトを演奏したい指揮者が他にいなかったからです。そのとき音楽祭のディレクターから、それなら自分のオーケストラを作ったらどうかと提案を受け、これはいいアイデアかもしれないと思ったのです。そこでヴェーグのオーケストラから大半の音楽家たちを引き継ぐことにしました。私の妻(塩川悠子)やコンサートマスターのエーリッヒ・へーバルトをはじめ、多くのメンバーがヴェーグの教えを受けた人たちで、彼の精神が宿っている。ほとんどファミリー、友人の輪でできています」
結成から四半世紀が経ち、メンバーの平均年齢は、60〜65歳くらいになった。
「私が思うに、日本は高齢者を尊重する数少ない国の一つだと思います。ヨーロッパでは、必ずしもそうではなく、若い人たちに場所を譲れと言われることもあります。これは非常に良くないメッセージだと思っています。なぜなら、芸術や科学の分野では、知識や経験、そして成熟といったものが非常に重要だと考えているからです」
メンバーに若い人たちを入れていく考えもあるが、「それは私たちのやり方ではない」と断言する。そうした考えのもと、2026年をもって活動を終了することを決めたという。
「私はこの音楽家たちに感謝と忠誠心を強く持っています。ですから、他のオーケストラとは異なり、(メンバーを若い世代へと移行することはせず)あと2年間演奏し、その後活動を休止するという結論に至ったのです。
もちろん、若い人たちが嫌いなわけでなく、私自身も日頃若い人に教えたりしていますが、若い世代を入れると、それはあくまで異なる世界になってしまうのです。世界は常に変わっています。いまのこの世の中に、私はちょっと居心地の悪さを感じています。私は非常にノスタルジックな人間なので、いまのメンバーのままで、と考えたのです。そこで物語は終わりです。しかし、私たちには思い出に残る美しい瞬間でたくさんありましたし、これからの2年間でも、まだやるべきことがたくさんあるのです」
シフが再三にわたり強調し、カペラのメンバーとともに目指す音楽の成熟とは何を意味しているのだろうか。
「私はワインが好きなのですが、ワインというのは、ボトルを開けてから2年、3年ではあまり良くなく、熟成するには時間がかかります。そこにはレシピと言えるような答えはありません。たとえば、私が50年演奏してきた作品がありますが、それもずいぶん変化しました。私の考えが変わっていったというよりは、時間が私自身を変えたのです。そして、50年前にはなかった作曲家へのなじみ感が生まれてきます。
時間は急ぐことができません。時間はそのスピードでしか進まないのです。たとえ非常に才能のある若者であっても浅い音に聞こえ、ある種デリケートさが求められる音楽というものがあります。ベートーヴェンは非常に良い例です。ただ、私が話していることは、測ることができません。私は最近、AIが社会に浸透してきていることにも非常に憂慮しています。人工知能にできることはたくさんありますが、人工知能が『フーガの技法』やシェイクスピアの戯曲、レンブラントの偉大な絵画を描くことはできないでしょう。なぜなら、それらの本質は測定できないものだからです」
2019年の日本を含むカペラのアジアツアーは、メンバーのあいだでも「ドリームツアー」と呼んでいるほど、忘れがたい素晴らしい経験だったという。来年のツアーが「FAREWELL IN JAPAN!」と銘打たれていることに「寂しい気持ちもある」としつつ、「活動を終える前に、もう一度日本に戻らねばと考えていました。今回も日本の聴衆の皆さんのために演奏できることを楽しみにしています」と期待を寄せた。日本での5公演では、「ライプツィヒのカフェ・ツィンマーマンでバッハがチェンバロの前に座って演奏していた、その雰囲気を再現したい」というバッハのピアノ協奏曲6曲からなるプログラムAと、モーツァルトの2曲のピアノ協奏曲、交響曲第40番を自ら振るオール・モーツァルトのプログラムBが予定されている。
グループの活動が長く続いてきたのには秘訣があるそうだ。
「カペラの秘密は、私たちがあまり頻繁には会わないということです。せいぜい年に2回か3回。1月にザルツブルクで行われるモーツァルト週間やそれに関連するツアーがあり、そのあと4月の終わりから5月にかけて、イタリアのヴィチェンツァで私自身の音楽祭に出演しています。めったに会わないというのがミソで、久しぶりに会えたということで、家族の集まりみたいにみんな喜ぶのです」
カペラがメンバー同士の親密な関係性を重視してきたことには、室内楽の延長としてのアンサンブルへの特別なこだわりに加え、世界の音楽界の現状に対する疑問が背景にあるようだ。
「カペラのメンバーは皆室内楽奏者。弦楽四重奏や他のアンサンブルで普段は演奏活動をしています。大きなオーケストラの一員ではありません。室内楽というのは、最も繊細で親密な音楽作り。演奏家がお互いを信頼し、お互いの音を聴き合って生み出す音楽。しかし、シンフォニー・オーケストラでは、楽員は指揮者に依存しています。私は指揮者の役割について非常に懐疑的です。指揮者とは、一体何でしょうか? 現代では、指揮者が謎めいたステータスを得てしまった。みんなマエストロと呼んで崇め奉るわけですが、それは本当にばかげています。彼らは一音も発しないのです。彼らは実際に何をしているのでしょうか? もちろん重要性はあるだろうとは思います。ただ、私自身に関して言えば、私は指揮をしますが指揮者ではありません。音楽をより深掘り下げたいという自分自身の好奇心で音楽をしているひとりの室内楽奏者であって、指示を出す独裁者ではないのです」
カペラの掉尾を飾るのは、2026年、イタリアのヴィチェンツァ。ルネサンス建築の傑作、ユネスコ世界遺産にも登録されているテアトロ・オリンピコで行われるオマッジョ・ア・パッラーディオ音楽祭 Omaggio a Palladio のステージ。27年間毎年演奏してきた、彼らのホームグラウンドとも言える地で、最後にベートーヴェンの「第九」交響曲を演奏するという。
「私たちは、まだベートーヴェンの第九交響曲を演奏したことがありません。これを我々の最後に選んだのは、この作品が人々を結びつける存在だからです。ヴィチェンツァには素晴らしいアマチュア合唱団があります。彼らは毎年私たちと共に歌ってくれているので、彼らと共に第九を演奏するのが最もふさわしいと考えました」
取材・文:編集部
【Information】
サー・アンドラーシュ・シフ指揮/ピアノ
カペラ・アンドレア・バルカ
2025.3/15(土)19:30 北京/中国国家大劇院[プログラムB]
3/16(日)19:30 北京/中国国家大劇院[プログラムA]
3/18(火)20:00 香港/香港文化中心[プログラムB]
3/19(水)20:00 香港/香港文化中心[プログラムA]
3/21(金)19:00 神奈川/ミューザ川崎シンフォニーホール[プログラムA]
3/22(土)17:00 大阪/フェニーチェ堺[プログラムA]
3/23(日)15:00 京都コンサートホール[プログラムB]
3/25(火)19:00 東京オペラシティ コンサートホール[プログラムA]
3/26(水)19:00 東京オペラシティ コンサートホール[プログラムB]
3/28(金)19:30 大邱/大邱コンサートハウス[プログラムC]
3/30(日)17:00 ソウル/ソウルアーツセンター[プログラムC]
【プログラムA】
J.S.バッハ:
ピアノ協奏曲第3番 ニ長調 BWV1054
ピアノ協奏曲第5番 へ短調 BWV1056
ピアノ協奏曲第7番 ト短調 BWV1058
ピアノ協奏曲第2番 ホ長調 BWV1053
ピアノ協奏曲第4番 イ長調 BWV1055
ピアノ協奏曲第1番 ニ短調 BWV1052
【プログラムB】
モーツァルト:
ピアノ協奏曲第23番 イ長調 K.488
交響曲第40番 ト短調 K.550
オペラ《ドン・ジョヴァンニ》K.527 序曲
ピアノ協奏曲第20番 ニ短調 K.466
【プログラムC】
J.S.バッハ:
ピアノ協奏曲第3番 ニ長調 BWV1054
ピアノ協奏曲第7番 ト短調 BWV1058
モーツァルト:
交響曲第40番 ト短調 K.550
オペラ《ドン・ジョヴァンニ》K.527 序曲
ピアノ協奏曲第20番 ニ短調 K.466
KAJIMOTO
https://www.kajimotomusic.com/concerts/2025-cab/