ガンバレ!吹奏楽部!ぶらあぼブラス!vol.26
中村明夫(長崎短期大学保育学科准教授)

佐世保の中心で吹奏楽愛を叫ぶ
「リーゼント先生」の型破り人生

取材・文・写真:オザワ部長(吹奏楽作家)

 港町・佐世保にこの男あり。真っ赤なベンツを駆り、ド派手なシャツとネクタイで決め、51歳となったいまでもヘアスタイルはリーゼント。

 長崎県の有名人、人呼んで「リーゼント先生」こと、中村明夫先生である。

「ブレず、染まらず、流されず」というポリシーのとおり、吹奏楽を愛し、生徒を思い、情熱と人情で愚直に生きてきた。その人生は音楽と、教育と、多くのドラマで彩られている。

 見た目はいかついが、澄んだ瞳で「俺は吹奏楽が好きなだけやけん」と語る明夫先生。その実態は、佐世保市にある長崎短期大学保育学科の准教授だ。

 明夫先生は1972年、佐世保で生まれた。

 初めてヘアスタイルをリーゼントにしたのは小6のときだった。小学校の先生と揉めて「大人は信用できん!」と思い、反抗の象徴として髪型をツッパリブームで流行したリーゼントに。以来、現在までそのスタイルを崩したことはない。

 中学校でもグレていたが、「悪さばっかしとったら、高校行けんぞ」と言う教師に反発し、猛勉強。テストで好成績をとって教師の鼻を明かした。悪いことはひと通りやったが、暴走族などには加わらなかった。徒党を組むのが好きではなかったのだ。

 授業はよくサボっていた明夫少年だが、放課後になると必ず参加していたのが吹奏楽部だった。担当楽器はチューバ。先輩に「あんたが来てくれんば、困るとよ」と言われたことも嬉しかった。

「吹奏楽部にだけは自分の居場所がある、と思うとったんやろうね」

 明夫先生はそう語る。

 大人や先生は信用できないが、楽器と音楽は信用できる、音楽を通してならまわりの生徒たちともつながれる、と思っていたのかもしれない。

 中学を卒業すると、進学校の県立佐世保北高校に入学したが、髪型は相変わらずリーゼントだった。

「厄介者だったと思いますよ。こっちも『高校に置いてもらっとる、みんなに迷惑かけちゃいけん』という気持ちはあったし、言ってみれば、節度のある不良でした」

高校時代の明夫先生

 吹奏楽部の活動にはさらに熱中し、クラシック音楽の魅力にも目覚めた明夫少年は徐々に音楽の道に進むことを考え始める。

「俺には音楽しかなか。一生続けたい。音大に入って、プロの奏者になろうと思ったんです」

 ところが、父親が病気で倒れ、両目を失明。職を失った。家を支えるために就職するしかない。そう考えていた明夫少年に、父親はこう言った。

「目が見えんくなって、保険金が入ったけん、音大ば受けれ。浪人せんと受かったら、才能あるっちゃろ」

 そんな父親の言葉を、明夫少年は「命がけの応援や」と感じた。そして、猛勉強して音大を受験。岡山県の作陽音楽大学(現・くらしき作陽大学)に見事合格を果たしたのだった。

♪ ♪ 

 音大卒業後はプロになるつもりだったが、たまたま県北の離島・壱岐(いき)島にある長崎県立壱岐高校から音楽科教員としての臨時採用の話が来た。明夫先生は引き受けることにしたが、リーゼントや派手な服装といった自分のスタイルを決して変えようとはしなかった。

 壱岐高校では吹奏楽部の指導も担当した。離島の素朴な高校生たちに音楽を教えるのは楽しかった。だが、心のどこかで「こいつら、ヘタクソだな」「なんで休みの日まで練習やりたがると?俺にはギャラも出んのに」と思っていた。

 そして、あるとき、ふと気づいた。

「あれは数年前の俺だ。音楽が大好きで、グレてても部活には出て、練習がしたくてたまらなかった俺と同じ高校生たちだ!」

 それなのに、いつの間にか「プロになって有名になりたい、金持ちになりたい、教師の仕事は一時的にやってやってるものだ」という考えになってしまっていた。

「親父は俺を命がけで応援してくれた。俺もいま、ピュアな気持ちに戻って、吹奏楽が大好きな高校生たちの背中ば押す仕事ばしよう。親父が応援してくれた明夫に戻ろう!」

 明夫先生はそう思った。

 翌年には長崎県の教員採用試験に合格し、晴れて「リーゼント先生」が誕生したのだった。

 その後、明夫先生は島原、対馬の高校で教員を務めた。対馬にいるときに酔った勢いで真っ赤な中古のベンツをオークションで落札し、いまも乗り続けている。

 2008年から故郷の佐世保市にある県立佐世保東翔高校に赴任。約80人という大所帯の吹奏楽部の顧問になった。「吹奏楽コンクールでは上位大会に縁がない」と笑う明夫先生だが、佐世保東翔時代には一度九州大会にまで進出し、銀賞を受賞している。コンクールの結果に関係なく、明夫先生と佐世保東翔は地元の人気者で、あちこちのイベントに引っ張りだこだった。

 活動の幅が広がる中で、大きな事件が起こった。

 明夫先生の出身大学を受験する予定だった佐世保東翔3年のトランペット奏者、前川希帆が入試当日の朝、母親の車で駅へ向かう途中に対向車に正面衝突され、前歯4本を折るなどの怪我を負ったのだ。相手は無免許・酒気帯び運転だった。

事故当時の前川希帆先生、明夫先生

 顔中を傷だらけにした教え子の姿に、先生は涙した。前歯は管楽器の演奏の要だ。それがなくなったことを知ると、先生は夜明け前の暗闇の中で、ひとり事故現場の地面を必死に手探りした。

 結局、前歯は見つからなかった。だが、前川希帆は苦労の末、義歯を入れて楽器が吹けるようになった。どうにか音大にも入学できた。そして、卒業後は長崎の高校教師になった。

 いまは前川希帆は「希帆先生」となって、九州文化学園高校で吹奏楽部の顧問を務めている。明夫先生がいる長崎短期大学の系列校だ。吹奏楽部は師弟による二人三脚で指導している。

 希帆先生はこう振り返る。

「初めて明夫先生に出会ったのは、先生が私のいた中学校にレッスンに来たとき。『チンピラみたいな人が来たな〜』と思っていました(笑)。でも、いろいろ指導してもらって、もともとは美容師になろうかと思っていた私が佐世保東翔に入って楽器を続けようと決めたのも、明夫先生と一緒なら面白い高校生活が送れそうだと思ったからです」

 トランペットの高音(ハイトーン)が出ないと、明夫先生に「ガッツで頑張れ!気持ちで負けるな!」と励まされた。いつしかソロコンテストで県代表になるほど上達し、音大を目指すことに。夢はプロ奏者だった。

 ところが、明るい未来を目の前にしての、自動車事故。

「あれから10年以上経ちますけど、当時のことは思い出せないんです。家を出たところまで覚えていて、気づいたら病院の処置室でした。真っ先に気づいたのは、自分の前歯がないということ。『前歯を直せば、また楽器が吹ける』と思っていましたが、入れ歯は痛いし、音はうまく出ない。大学2年間は音が出ないという苦しみを味わい、3年生でインプラントにしましたが、これもなかなか調整が難しかったです」

 音大時代は「みんなが楽しそうに演奏しているのに、自分は拭きたくても吹けない」と挫けそうになったこともある。だが、他人と比べるのではなく、昨日の自分と比べること、昨日出せなかった音が今日は出せることに気持ちを向ければいいのだと気づき、希帆先生は前向きになれたという。

 そして、その陰には常に支えてくれる明夫先生の存在があった。

 いまは同じ教員、吹奏楽指導者という立場になり、「まさか希帆がこんなに頑固で気が強いとは思わんかった」と明夫先生は笑う。

「前川には俺を超える存在になってほしいけど、俺も簡単に超えられるわけにはいかんけん、まだまだ頑張ります」

 明夫先生は愛弟子の成長を喜ぶように目を細めてそう言った。

左より:明夫先生、前川先生

 明夫先生は2022年度まで佐世保東翔で勤務したが、佐世保市外への異動がほぼ確実になったこともあり、高校教師を辞めて現職に就いた。これからも故郷の佐世保を吹奏楽で盛り上げるためだ。

 また、佐世保市の部活動専門指導者として市内の中学校を指導。隣の西海市からの要請で音楽プロデューサーにも就任するなど、県北エリアの吹奏楽界の中心的存在となっている。

 もちろん、希帆先生が顧問を務める九州文化学園高校吹奏楽部でも指導をしている。

 高2でアルトサックスを担当する松永陽菜乃は明夫先生のことをこう語った。

「合奏練習で心に響く言葉をたくさん言ってくれる先生です。いちばん印象に残ってるのは、『練習をやったらやっただけ信頼関係が生まれる』という言葉。自分が一生懸命練習したら、まわりにも信頼され、頑張ろうという気持ちが伝わっていってお互いに信頼関係が深まるという話だったので、私もそうなるよう頑張っていこうと思いました」

 同じく高2の泉谷美月は、中3のときにレッスンに来た明夫先生の姿が忘れられないという。

「音楽の先生というよりも、いかつくて怖かったです(笑)。でも、私たちに寄り添ってくれる優しい先生だとすぐわかり、高校は明夫先生に指導を受けたいという気持ちもあってこの学校を選びました。合奏練習をしているとき、ひとりでもできない部員がいたら真剣に教え続けてくれたり、うまく吹けない原因を的確に教えてくれたり、本当にいい先生だと思います」

左より:松永陽菜乃さん、泉谷美月さん、明夫先生

 明夫先生の奮闘もあり、佐世保の吹奏楽のレベルは上がってきている。先生は今年のコンクールで「すべての佐世保の学校が、県大会で銅賞(出場校の下位3分の1に与えられる)をとらないようにすること」を目標に掲げて指導をしたが、その目標も見事達成された。

「俺を命がけで応援してくれた親父は俺が23歳のときにあの世に行きましたけど、もしいまも生きとったらきっと俺の姿を喜んでくれたと思います。俺もいつかあの世に行ったら、親父に『頑張ったぜ!』と伝えたい」

 明夫先生の目標は、思いやりのある生徒を育てることと、子どもから大人までを音楽を通じてつなぐこと。そのユニークなキャラクターと精力的な活動は注目を集め、全国ネットのテレビ番組でも取り上げられている。

「子どもたちには、大人になっても音楽を続けてほしい。楽器と一緒に人生を歩んでほしい。もし一緒にやれる人がおらん、場所もなかとなら、佐世保に来い!俺に集まれ!」

 赤いベンツに乗って人生という道を熱く、まっすぐに走り続けるリーゼント先生は、これからも佐世保から音楽への愛と情熱を発信し続ける。

編集長’s voice  – 取材に立ち会って感じたこと –
先生をフィーチャーするという「ぶらあぼブラス!」始まって以来の試み。しかも風貌からして只者ではない。少し不安を感じつつインタビューが始まりました。でも、かつてのご自身のお話では反骨精神に満ちたエピソードも飛び出しましたが、それは曲がったことが嫌いなことの表れ。生徒との話になると、思いやりとやさしさ、そして情熱に溢れていらっしゃいました。そんな先生と音楽をしたい、と方々からお声がかかる。今日も愛車で県内各地を飛び回っているのだろうなー。

学校近く、九十九島の美しい夕景

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