OZAWAのいない夏 第1回
〜矢部達哉が語る小澤征爾とセイジ・オザワ 松本フェスティバル

2017年 ベートーヴェン:《レオノーレ》序曲 第3番のステージより
(小澤総監督の指揮でコンサートマスターを務めた最後の公演)
©大窪道治/2017OMF

 8月といえば、音楽ファンにとって最もワクワクする音楽祭である「セイジ・オザワ 松本フェスティバル」(OMF)が待っている。ただ、今年は長年このフェスティバルを牽引してきた小澤征爾さんがいない初めての夏。そんな状況のなかで、これまで数多く演奏を共にしてきた演奏家たちはどんな想いでいるのか。正直な気持ちを聞きたくて、サイトウ・キネン・オーケストラ(SKO)でコンサートマスターを務める矢部達哉に会いに行った。

取材・文:片桐卓也

——小澤征爾さんが亡くなって以降、初となるセイジ・オザワ 松本フェスティバルがもうすぐ始まります。いま、どんなことを感じていらっしゃいますか?

矢部 小澤さんとのお付き合いはとても長くて、それこそ僕が学生時代に桐朋学園のオーケストラを指揮してくださって、さんざん絞られたことを思い出しますし、色々なことが脳裏をよぎります。でも、いま強く感じているのは、実際に小澤さんが生前に指揮をなさっていた時よりも、個人的には緊張感が高まっているということです。小澤さんがずっと上から見ている、上からずっと見られている……そんな感じがしているので、ちょっとしたことも気が抜けないなと思います。

矢部達哉さん

——それは本当に気が抜けないですね。小澤さんとの活動もかなりたくさん経験されたと思いますが、その中で、印象的なエピソードがあったら教えてください。

矢部 一番印象に残っているのは、コンサート・キャラバンでしょうか。特に1989年と1993年、ロストロポーヴィチとキャラバンでまわっていた時には、コンサートが終わると夜はみんなで、それこそ羽目を外すほど飲んで(笑)雑魚寝していたのですが、朝になると、上のほうからバサッ、バサッと何か音がして、目が覚めるのです。ふと目をやると、小澤さんがすでに起きていて、楽譜を読んではめくっている音だったのですね。しかも、毎日3回ぐらい演奏しているハイドンとかボッケリーニのチェロ協奏曲の譜面を勉強していて、「起きたんだったら、ちょうど良いから、アンタ、ここの所をちょっと見てくれる」と僕に言うのです。「ここはもうちょっと、はっきり弾いてくれないと困るんだけど」とか、すぐに音楽の話を始めて…。

——朝にたくさん勉強されるエピソードは、小澤さんには欠かせない話題ですね。

矢部 都市伝説ではなく、本当に勉強なさっていたのです。そして、いつも全力投球。どんな会場であろうが、客席が何人であろうが、音楽をする時は全力投球でした。世界の超一流のオケをなぎ倒してきた人が、奥志賀の音楽堂で地元の人たちを前に子どもたちを指揮するときでも、真剣に取り組むからこそ緊張している。そこは小澤さんの一番尊敬できるところ。6000人入る体育館で、ざわざわしていた子どもたちが一瞬にして静まり返るほどの、強烈な凄まじいオーラでした。そういう姿勢を学生時代から見せられていたので、僕もやはり音楽をする時はいつも全力投球、ということを学びました。

2015年 OMFの舞台裏で小澤さんと ©大窪道治/2015OMF

——セイジ・オザワ 松本フェスティバルの前身、サイトウ・キネン・フェスティバル 松本には第1回から参加されていますね。

矢部 1992年が第1回ですが、考えてみると、その頃の小澤さんは今の僕とあまり変わらない年齢なのです。しかし、その時に小澤さんが背負っていたもの、どうしてもこの音楽祭を成功させなければならないというプレッシャーは想像を絶するものだったでしょう。(長女の)征良さんともよく話すのですが、彼女が言うには「あの時の父は本当に緊張感と責任感に押しつぶされそうになっていて、ずっとイライラしていた」と。第1回に上演されたストラヴィンスキーのオペラ《エディプス王》のリハーサルの時は、オーケストラの一人ひとりにも注文をつけていましたし、照明などにも細かな指示を出されていました。その強い想いが、第1回のフェスティバルの成功に繋がったのです。《エディプス王》の初日が終わった後に、コンサートマスターの潮田益子さんが、小澤さんに「おめでとう」と手を出された時に、小澤さんが涙を流されていたことがとても印象に残っています。初期のサイトウ・キネン・フェスティバルにはそういう緊張感が常にありました。

2017年 オーケストラコンサートのリハーサルより ©山田毅/2017OMF

 翌年にはシューベルトの「未完成」を演奏しました。その頃は僕も最も若い世代だったので、やる気だけは見せようと、リハーサルの会場には一番に行っていたのですが、ある時、今日も一番乗りだと思っていたら、中から楽器の音がするのです。ちらっと見たら、カール・ライスター(クラリネット)とローター・コッホ(オーボエ)がふたりで「未完成」の冒頭のところを、何度も練習しているのです。「この世界的な巨匠ふたりに、そこまで練習をしようと思わせてしまう小澤さんって、なんて凄いのか!」とあらためて思いました。

豊嶋泰嗣さんとは長年、苦楽をともにしてきた ©大窪道治/2019OMF

——小澤さんの指揮に関して言うと、年々、違った要素を見せるようになっていったような気がします。

矢部 オペラでは、ヤナーチェク《イェヌーファ》やベルク《ヴォツェック》などの上演が特に印象に残っています。それから、2002年シーズンからはウィーン国立歌劇場の音楽監督に就任されたわけですが、その頃から指揮ぶりも変わってきたと思います。それまでのサイトウ・キネン・オーケストラは、全員が一致した集中力や、合奏の力が魅力だったと思うのですが、小澤さんは次第に演奏者一人ひとりの個性や考え方を演奏に反映するようなスタイルを求めるようになってきましたね。

2022年11月 JAXAとの共同企画でSKOが国際宇宙ステーションに音楽を届けた。
公の場での指揮はこの時が最後となった。
©Seiji Ozawa×SKO/JAXA ONE EARTH MISSION

——フェスティバルは1992年から長い歴史を誇りますが、小澤さんと共演したコンサートの中で一番印象に残っている演奏は?

矢部 たくさんありますが、特に挙げるなら、ロストロポーヴィチと共演したR. シュトラウスの「ドン・キホーテ」、その2日目の演奏かな。これはドキュメント映像も残っていますが。

2002年 R. シュトラウス:交響詩「ドン・キホーテ」
チェロ:ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ、ヴィオラ:店村眞積
©2002SKF

——今年は若い沖澤のどかさんが首席客演指揮者として登場します。

矢部 彼女が《フィガロの結婚》を指揮した時に、小澤さんが「沖澤さん、素晴らしい」と断言していました。僕たちもそう思いますし、これから一緒に、どんな演奏ができるか、とても楽しみです。

——暑さも厳しいと思いますが、頑張って下さい。ありがとうございました。

信州名物のそばを食べるのも、松本での楽しみのひとつ(右は豊嶋泰嗣さん)
©大窪道治/2019OMF

〈編集後記〉
いろいろな思い出を語ってくださった矢部さん。「曲がだいぶ出来上がっちゃったから今日はもういいか、みたいな日は、小澤さんは絶対になかった」と振り返ります。そうしたメンタリティについて、世界的な指揮者に上り詰めた後も「ベルリンやウィーンでは本番1回、1回がキャリアに関わるし、失敗したら次はないっていうプレッシャーがあったのではないか。名門中の名門であるボストン響の音楽監督という立場でも見えない敵と闘っていたのではないか」と推察していました。そんな小澤さんにとって、SKOは自分たちの仲間・家族で、弱みもすべて見せられる場所であったようです。「上から見ている」小澤さんの存在を感じながら、今年もまた、夏の松本に音楽家たちが集います。(編集部)


©山田毅/2017OMF

矢部達哉(ヴァイオリン)

洗練された美しい音色と深い音楽性によって、日本の楽壇のリーダーとして最も活躍しているヴァイオリニストの一人。
江藤俊哉に師事。89年桐朋学園ディプロマコース修了後、90年22歳の若さで東京都交響楽団のソロ・コンサートマスターに抜擢され、2020年30周年を迎えた。サイトウ・キネン・オーケストラで小澤征爾の指揮の下オペラや交響曲のコンサートマスターを務めるほか、トリトン晴れた海のオーケストラのコンサートマスター及び京都アルティ弦楽四重奏団のメンバーとして定期演奏会を行っている。97年、NHK連続テレビ小説「あぐり」のヴァイオリン・ソロで大きな反響を呼ぶ。2003年にはNHKテレビ放送50年記念ドラマ「川、いつか海へ(作曲:岩代太郎)」の音楽を演奏。オーケストラの傍らソロ、室内楽で活躍。ソリストとして、朝比奈隆、小澤征爾、若杉弘、ジャン・フルネ、ジェームズ・デプリースト、エリアフ・インバル、ガリー・ベルティーニ、A・ギルバート等の著名指揮者と共演。
2009年、音楽の友4月号では、読者の選んだ“私の好きな国内オーケストラのコンサートマスター”で1位に選ばれ、2016年文藝春秋2月号で「日本を元気にする逸材125人」の一人に選ばれている。94年度第5回出光音楽賞、平成8年度村松賞、96年第1回ホテルオークラ音楽賞受賞。
ソリストとして、ソニークラシカルより横山幸雄とのデュオ2枚を含む5枚、オクタヴィア・レコードより2枚(モーツァルトのヴァイオリン協奏曲第4番&第5番「トルコ風」及び横山幸雄とのデュオでベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ第9番「クロイツェル」&第10番)の他、フォンテックより朝比奈隆指揮/ブラームスのヴァイオリン協奏曲、キングレコードよりトリトン晴れた海のオーケストラ「ベートーヴェン交響曲第9番」のCDが発売されている。
トリトン晴れた海のオーケストラ・コンサートマスター、毎年開催されている三島せせらぎ音楽祭アンサンブルメンバー代表。
X(旧Twitter):@TatsuyaYabeVL

【Information】
2024セイジ・オザワ 松本フェスティバル
2024.8/9(金)~9/4(水) キッセイ文化ホール(長野県松本文化会館)、まつもと市民芸術館、松本市音楽文化ホール(ザ・ハーモニーホール) 他


●オーケストラ コンサート Aプログラム
2024.8/10(土)、8/11(日)各日15:00 キッセイ文化ホール(長野県松本文化会館)
●オーケストラ コンサート Bプログラム
8/16(金)19:00、8/17(土)15:00 キッセイ文化ホール(長野県松本文化会館)
●オーケストラ コンサート Cプログラム
8/21(水)19:00、8/22(木)16:00 キッセイ文化ホール(長野県松本文化会館)
●OMFオペラ プッチーニ:《ジャンニ・スキッキ》
8/25(日)15:00 まつもと市民芸術館・主ホール
●ふれあいコンサート
I. 8/12(月・休)15:00 
II. 8/18(日)15:00 
III. 8/24(土)15:00
松本市音楽文化ホール(ザ・ハーモニーホール)
●OMF室内楽勉強会~木管アンサンブル~
8/9(金)15:00 松本市あがたの森文化会館 講堂

問:セイジ・オザワ 松本フェスティバル実行委員会0263-39-0001
https://www.ozawa-festival.com