那須田務のドイツ音楽紀行2〜ハンブルクのグリゴリー・ソコロフ、ポツダム・サンスーシ音楽祭のアンドレアス・シュタイアーを聴く

取材・文:那須田務(音楽評論家)

 6月に20日間ほど、ドイツへコンサートを聴きに出かけてきた。ベルリンを拠点にライプツィヒのバッハ音楽祭を取材し、ベルリンやポツダム、ハンブルク、フランクフルト等で様々なコンサートを聴いた。第2回は、世界屈指のピアニスト二人のリサイタルの模様をお届けする。

グリゴリー・ソコロフ ピアノ・リサイタル|6/10(月) ハンブルク ライスハレ

 ソコロフはヨーロッパでは頻繁にコンサートをしているのに、なぜか日本に来ない(唯一の来日が1968年、ソヴィエト国立交響楽団と来日したらしい)。理由は分からないが、日本の聴衆にとってはやはり幻のピアニストだ。ドイツ・グラモフォンなどからリリースされているディスクを聴くにつれ、実際の音を聴いてみたいという思いは募るばかり。ネットで調べると、幸運にも6月10日に4月の延期公演がハンブルクであるというので、ベルリンから一泊旅行をした。

グリゴリー・ソコロフ ©Vico Chamla

 グリゴリー・ソコロフは1950年生まれなので今年74歳。レニングラードに生まれ、幼い頃にリヤ・ゼリフマン(1910-1971)、モイセイ・ハリフィン(1907-1990)に師事。16歳でチャイコフスキー・コンクールに優勝。80年代まではソ連圏内でのみ知られていたが、ペレストロイカ以後、欧州各地でさかんにコンサートをするようになった。

ライスハレ入口のポスター

 ハンブルクのライスハレは1908年に建造された、クラシカルな内装のたいへん美しい建物だ。客席数およそ2000、ハンザ都市ハンブルクの船主ライスがたくさん資金を寄贈したことからライスハレ(ホール)と命名された。プログラム前半はバッハのデュエット4曲とパルティータ第2番、ショパンのマズルカ作品30&50の7曲とシューマンの《森の情景》。

Johann Sebastian Bach
Vier Duette BWV 802 / aus: Clavier-Übung, Teil 3
Partita Nr. 2 c-Moll BWV 826
Frédéric Chopin
Vier Mazurken op. 30
Drei Mazurkas op. 50
Robert Schumann
Waldszenen op. 82

ライスハレ内の階段

 ソコロフは照明を絞ったステージに現れるとすぐに弾き始める。チケット購入のタイミングが出遅れたために2階席後方のあまり良い席ではなかったが、ピアノの音がきれいに聴こえるのは、ホールの響きが良いからか、優れたタッチのゆえか。音の輪郭がはっきりしていて、柔らかくてまろやかな音色は、それ自体強い求心力を持つ。聴いているだけで気持ちがいい。それだけではない。明快なアーティキュレーション、第2曲の明確な声部の入り、フレーズを長くつなげて表情豊かに歌うなど、細部にわたってよく考えられている。弾き終えて拍手を待たずにそのままパルティータへ。絶妙なペダリングで響きや音色を完璧に制御し、個々の楽章に独自な色合いを与えていく。ただ、テンポ設定は全体的に遅め。加えてバロックの様式感をかなり逸脱したところがあり、その点で感覚的と言える。後半はショパンのマズルカから。テンポはやはり全体的に遅いがバッハより自然だ。各曲に織り込まれたクラコヴィアクやマズルなど舞曲の性格の違いが良く分かるし、細部まで練り上げられていると同時に、即興的で幻想的な趣がある。

ライスハレの客席から

 《森の情景》にも同様のことが言える。即興的な趣と表現の密度はますます濃くなり、〈預言の鳥〉などは奥深い森の暗闇に静かに点滅する鳥の幻影を見ているようだ。テンポは全体に遅いが、豊満なタッチとホールの響きからいえばちょうどいい。どの曲も表現は細部まで彫琢され、性格と情感が浮き彫りにされる。そしてショパンのマズルカでもそうだったが、伴奏声部はインテンポで旋律だけをわずかに遅らせるルバート。レオポルト・モーツァルトやショパンらが推奨していたものだが実演では滅多に聴けない。本人もよほど調子が良いらしく、アンコールは次から次へと6曲(『ぶらあぼ』編集部によれば、ソコロフはいつもアンコールが多いそう)。バッハの〈われ汝に呼ばわる、イエス・キリストよ〉で締め括った。日本から飛行機に乗って聴きに来るだけの価値があるピアニストだ。

開演前のステージ

アンドレアス・シュタイアー チェンバロ・リサイタル|6/12(水) ポツダム サンスーシ宮殿ノイエ・カンマルン

 ベルリンから近郊電車で1時間半ほどのポツダム、サンスーシ宮。フルート奏者で作曲もしたプロイセンのフリードリヒ大王(1712~1786)が、国政や戦争に明け暮れる中でせめてここにいる間は憂い無き(サンスーシ sans souci)日々を過ごしたいと、ヴェルサイユ宮殿を模した大宮殿を建立。ここを中心に6月7日から23日までポツダム・サンスーシ音楽祭(Musikfestspiele Potsdam Sanssouci)が開催されていて、12日にシュタイアーのリサイタルが行なわれた。

ポツダム パーク・サンスーシ駅
新宮殿

 これまでにも何度も当地を訪れているが、改めて敷地の広さに驚く。昼過ぎに着いて夕方のリサイタルまで新宮殿などを見物した。リサイタルの会場は、夏の離宮サンスーシに隣接したノイエ・カンマルン(Neue Kammern)の一室。迎賓館のような役割の建物で、古代ローマの詩人にちなんだ「オウィディウスのギャラリー Ovid Gallery」の名称にふさわしく、内装はすばらしく豪華に飾られている。ギリシャ神話のレダと白鳥のレリーフ等が刻まれた窓際にチェンバロ(フレンチ二段鍵盤 H. エムシュ 1754年製のC. フックスによる複製楽器)が置かれていて、窓の向こうに緑豊かな庭園が広がる。

ノイエ・カンマルン、オウィディウスのギャラリー
コンサート前のチェンバロの調律

 今回の音楽祭のテーマは「ダンス」。フィッシャーのトッカータに始まり、ダングルベール、クレランボー、ムファット、J.S. バッハらの組曲等の舞曲楽章(パッサカリア、シャコンヌ等を含む)を集めているが、ダングルベールのトンボーを入れて陰影を添えるのがシュタイアーらしい。フィッシャーのトッカータをフルストップで開始。いずれも弾き手の深い意識が感じられる集中度の高い演奏で、続くパッサカリアは明度の高いサウンドにパッションが漲り、ダングルベールのトンボーには一音一音に弾き手の思いが感じられる。

今年のサンスーシ音楽祭のテーマは Tanz(ダンス)

Johann Caspar Ferdinand Fischer
Toccata / Passacaglia aus der Suite »Urania«
(Musikalischer Parnassus)
Jean-Henry d’Anglebert
Prélude / Tombeau de M. de Chambonnières / Chaconne Rondeau
Louis-Nicolas Clérambault
Prélude / Allemande / Courante / Sarabande Grave / Gigue
Georg Muffat
Passacaglia (Apparatus Musico-Organisticus)
Johann Sebastian Bach
Partita Nr. 4 D-Dur BWV 828

 石造りの床に30センチほどの高さの木製の舞台を設置し、その上に楽器を置いて弾く、天井も高いこともあってとてもよく響く。低音が充実しているとともに、声部の透明度も抜群だ。こういうところでこそチェンバロ本来の魅力が発揮されると実感。ダングルベールのシャコンヌやクレランボーの組曲、ムファットのパッサカリア、バッハのパルティータ第4番然り。上下鍵盤、2本の8フィートと4フィート、リュートストップ等のレジスターを自在に使い分けて楽曲にふさわしい音色と情感を与えていく。

 若い頃から煌めくばかりの才気と強い表現意志、名人芸で知られる人だけに、とかく外連(ケレン)なイメージを与えてしまうシュタイアーだが、10年ほど前から外面的な華やかさは影を潜め、内面性と円熟味が加わって、個々の曲の様式を押さえながらも、表現そのものの純度が増している。

 また、18世紀はロココの時代でもある。このノイエ・カンマルンを始めとするサンスーシの建物のいたるところに、フリードリヒ大王が好んだ独特なロココ様式の装飾模様が散見される。いくぶんドイツ的な表出力をもつそれをフリードリヒ風ロココ(Friderizianisches Rokoko)というが、この日のシュタイアーの奏でるフランス・バロックやバッハに通じるところがあると思った。アンコールはバッハのフランス組曲第5番のサラバンド。選曲、演奏も含めてたいへん充実したコンサートだった。

終演後にシュタイアーと筆者

 シュタイアーはここ数年、作曲に取り組み、古楽の旋律を変容しつつ引用した《チェンバロのためのアンクレンゲ Anklänge》と題する、本格的な現代作品を書いて出版(Editions Henry Lemoine 2023)し、Alphaレーベルの『メディテーション Méditation』(Alpha 1012)に収録。今年の10月の来日公演には、ダニエル・ゼペック(ヴァイオリン)やロエル・ディールティエンス(チェロ)とのウィーン古典派のピアノ・トリオの他、彼自身の《アンクレンゲ》を中心に据えたチェンバロ・リサイタルも予定されている。今年のライプツィヒのバッハ・メダルを授与され、常に新たな境地を開拓し続けているシュタイアー。これからもその音楽の深化を見守っていきたい。

写真:クレジットなしは筆者提供

【Information】
アンドレアス・シュタイアー来日情報
アンドレアス・シュタイアー(チェンバロ)
〈びわ湖の午後66/メディテーション~チェンバロによる瞑想〉
2024.10/20(日)15:00 びわ湖ホール(小)
https://www.biwako-hall.or.jp/performance/biwa-gogo66

〈アンドレアス・シュタイアー プロジェクト 13〉
アンドレアス・シュタイアー(フォルテピアノ)&ダニエル・ゼペック(ヴァイオリン)&ロエル・ディールティエンス(チェロ)

10/26(土)15:00 トッパンホール
https://www.toppanhall.com/concert/detail/202410261500.html

シュタイアー・トリオ
〈古楽の愉しみ/フォルテピアノでベートーヴェン・トリオを聴く〉

10/27(日)15:00 兵庫県立芸術文化センター(小)
https://www1.gcenter-hyogo.jp/contents_parts/ConcertDetail.aspx?kid=5043213314&sid=0000000001

〈アンドレアス・シュタイアー プロジェクト 14〉
アンドレアス・シュタイアー(フォルテピアノ)

10/29(月)19:00 トッパンホール
https://www.toppanhall.com/concert/detail/202410281900.html

〈Kitaraワールドソリストシリーズ〉
アンドレアス・シュタイアー チェンバロリサイタル

11/2(土)14:00 札幌コンサートホール Kitara(小)
https://www.kitara-sapporo.or.jp/event/event_detail.php?num=5862

那須田務 Tsutomu Nasuda
音楽評論家。1980年に渡独。ケルン音楽大学およびアムステルダムで古楽演奏を学び(ヘラー、ハウヴェ両氏に師事)、ケルン大学哲学部音楽学科修士課程修了(M.A)。帰国後2023年まで母校の洗足学園音楽大学で音楽学を講じるとともに、音楽評論家として活動。ラジオ番組への出演や新聞雑誌への寄稿、市民講座などを行う。共訳書にアーノンクール著『音楽は対話である』(アカデミア・ミュージック)、著書に『音楽ってすばらしい』(ポプラ社)、『名曲名盤バッハ』『ON BOOKS advance もっときわめる! 1曲1冊シリーズ5 J.S.バッハ:《無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ》』『古楽夜話 古楽を楽しむための60のエピソード』(以上、音楽之友社)、『教会暦で楽しむバッハの教会カンタータ』(春秋社)、監修著作に『ピアノの世界』(学研)、『河出「夢」ムック バッハ』の他、『古楽演奏の現在』(音楽之友社)、『古楽への招待』(立風書房)等共著書多数。また長年にわたり『レコード芸術』誌の新譜月評を担当。現在『音楽の友』誌のレギュラー執筆者。日本ペンクラブ会員、ミュージック・ペンクラブ・ジャパン理事。