Aからの眺望 #25
苦悩に満ちた晴朗な歌
――マウリツィオ・ポリーニの波打ち際で

文:青澤隆明

マウリツィオ・ポリーニ ©Mathias Bothor and DG

「なんらかの価値があるものはすべて永遠であってほしいと、私たちは思う」とシモーヌ・ヴェイユは綴った、「だが、価値あるものはすべてが出逢いの産物だ。すべての価値は出逢いによって持続し、出逢いが別離に転じたときに終焉を迎える」。ほんとうにそうなのだろうか。しかし、さらに彼女は述べる、「貴重なものが傷つきやすいのは美しいことだ。傷つきやすさは存在の徴なのだから」。美しさとはなにか。「美とは偶然と善が織りなす調和だ」。

 マウリツィオ・ポリーニが亡くなったときいたのは、折しも『重力と恩寵』として書物にまとめられたヴェイユの言葉を辿っていたその一週間ほど後のことだった。そういえば、もうずいぶんと長い間、ポリーニのピアノを聴いていなかった。最近のコンサートをキャンセルした話は伝ってきてはいたが、それきりになってしまうとは。
 ポリーニについては、これまでも折に触れて書いてきた。だから私に改めてなにか言うことがあるかというと、いささか心もとない気もする。年輪が変化をもたらした面はあるとはいえ、つまるところ、ポリーニは一貫してただひとりのポリーニであり続けたのだから。
 一途に理想に殉じる男は、社会や時代、自身の環境がどのように変容しようとも堅固な意志を変えなかった。私にはそう思える。とすれば、ポリーニについて語ることはその意志を、歌のかたちで歌い継ぐことにほかならないだろう。まずは節制して禁欲的に、だからこそ逃げ場もなく香り立つロマンティシズムとともに。

 マウリツィオ・ポリーニの実演を私が聴いたのは、2018年10月の東京が最後となってしまった。3つのリサイタルをすべて聴いたし、トッパンホールで開かれた「ポリーニ・プロジェクト」の室内楽の会にも行って、おなじように客席に座るポリーニというひとをいくらか身近に感じもした。
 そのときのリサイタルはまず10月7日にシューマンとショパンを弾いた後、腕の疲労がとれず11日の演奏会は難しくなったということで、プログラムを切り替えて21日に延期された。結局は当日の発表で、前半に組まれていたショパンのソナタ第3番op.58を見送り、ノクターンop.27とop.55、マズルカop.56、ベルスーズop.57を演奏した。
 なんとしても聴衆との約束を果たすべく、そのときポリーニはぎりぎりの選択をしたのだろう。もしかしたらこれが最後になるかもしれない、ということを私もどこかでは感じながら、しかし体調には波があるものだというふうに思いたかった。不調であれなんであれ、聴衆の前でピアノを弾くことを、頑なに続けていたその姿が、つよく目に焼きついていたからである。
 10月18日のコンサートが進んで、ドビュッシーの『前奏曲集 第1巻』になると、ショパンの透明で淡彩な感じから、画期的に音が変わって、ぐっと和音が色めき立ったのをよく覚えている。2016年春の来日で採り上げていた『前奏曲集 第2巻』もそうだったが、くっきりと意志をもって見通された、まさしくポリーニのドビュッシーだと感じた。

 あれが、もう5年以上も前のことになる。ポリーニはその後もコンサートやレコーディングを続けていった。そして、報じられたところでは2023年10月の演奏会を最後として、ついに聴衆の前から姿を消した。
 結果として最後になった来日の折には、2016年秋に録音された『前奏曲集 第2巻』に、愛息ダニエレ・ポリーニとの「黒と白で」を合わせたドビュッシー・アルバムが出ていた。それから、2018年5月に録音されていたショパン晩年のノクターンop.55、マズルカop.56、ベルスーズop.57、ロ短調ソナタop.58もアルバムにまとめられた。いずれ先の日本でのリサイタルとも、ほぼ同期していた曲目だった。
 それから2019年6月にベートーヴェン晩年のソナタop.109、op.110、op.111に続いて、21年6月と22年4月にop.101とop.106も再レコーディングしたが、これはベートーヴェンと自身の同時代を繋ぐ《ポリーニ・パースペクティヴ2012 in 東京》のチクルスを経て再訪されたベートーヴェンの後期世界ということになる。
 そして、ここまでがポリーニ生前のリリースとなった。本人や周囲が強く意識したのかどうかは知れないし、まだなにか――できればブラームスの後期作など――が出てくるとうれしいが、それにしても、なんというレコーディング・キャリアの結びかただろう。
 ベートーヴェンのイ長調ソナタop.101と変ロ長調ソナタop.106のどちらが後に録音されたのかもCDのブックレットでは詳らかにされていないが、いずれにしても私たちが最後に辿るのはかの大ソナタ「ハンマークラヴィーア」なのだ。一言でいえば、それは頑なに保たれた意志と横溢する歌の流れであり、つまりはマウリツィオ・ポリーニという人間の生の礼賛のように響いてくる音楽だ。

 そうした近年のレコーディングのほかに、ポリーニのピアノを私が聴いた最新の場面はと言えば、2023年12月24日のことだった。
 それはノーノがポリーニの録音を用いた「.....苦痛に満ちて晴朗な波...」のテープで、そのときアコースティックのピアノでポリーニの磁気テープ音響と対峙していたのは北村朋幹だった。この曲はリストの『巡礼の年 第3年』に組み合わせるべく先に録音もなされていたから、実際にはこの後に北村朋幹のアルバムのなかで聴くポリーニのテープが私の最新の記憶となっていた。
 ポリーニ自身の同曲録音は1977年のものだから、それから半世紀近くが経って、あの時代の音響はずいぶん若い世代へもつよく反響したことになる。
 作曲者ノーノのディレクションにより磁気テープに記録されたポリーニのピアノは、ペダルを踏みこむ音や、鐘の音のような響きまで、具体的で物質的な音響を近く克明に捉えようとしたものだ。つまり、ピアノというオブジェクトから、そして精細なタッチを活用するポリーニの演奏だからこそ、多様に生起する物音を克明な音像として鮮やかに収録している。こうして記録された音響体の再現と、生身のピアノ演奏が交叉するように対峙し、いずれもポリーニの精神と身体を通じて叶えられていたのが、本作初録音のもつ独特の位相であった。
 ノーノもポリーニも身内を亡くした悲しみを抱くさなかに、同曲が創られたことを作曲家は記していた。しかし、本作のテープに記録された個々の音のマテリアルは大きく情緒的であるよりも、むしろ静的に動作しているだけに、よりつよく確実に聴き手に訴えかけてくるように思える。それは、まさしく波の実相をみつめるような、冷厳で内省的なまなざしのうちに、瞬時と永遠をともに無化するような位相で鳴り響くものだろう。
 ヴェニスの自宅にいると、さまざまな鐘が異なる響きと異なる意味合いをもって耳に聞こえてくる、日夜、霧や陽光のなかを伝って――そうノーノは綴っていた――そして、人生はそこで、カフカが言う“深き内面のバランス”を痛切かつ穏やかに保つ必要をもって続いていくのだ、と。
 ポリーニのピアノ演奏に畏敬の念を抱いたノーノは、彼のピアニズムの硬質で繊細な性格を、物質的な音響と情感の波のうちに明敏に形象化してみせたのだ。そして、ポリーニ自身の録音と生演奏の協働は、近過去もしくは近未来と現在の自己との対話という独特の性質を自ずと帯びる。この作品をくり返し演奏することで、ポリーニは自身が叶えた音響という現象だけでなく、彼自身の高邁な音楽的理想と対峙し続けてきたに違いなかった。
 まさしく同胞と生きぬくポリーニのモニュメントとして重要な1970年代の協働の成果である。そして、ノーノは「力と光の波のように」と本作「.....苦痛に満ちて晴朗な波...」以降、ピアノのための作品創作には戻らなかった。私がポリーニの演奏で同曲のライヴ演奏に初めて接したのは1993年のことだったか。最後に聴いたのが、2005年東京での「ポリーニ・プロジェクト2」であることは確実だ。
 変化する時代のなかでも、ポリーニの信は青年時代から揺らぐことなく頑健であった。そのことも、ポリーニの音楽の愚直なまでの芯をみれば、まっすぐ推し量れるだろう。そうした姿勢のわかりやすいかたちとして、30歳以下の「青少年のためのコンサート」を彼は積極的に開催し、私も若き日にはその恩恵を受けられる立場にあった。富裕層の専有ではなく、音楽を万人共有の資産にしようという、彼の貫く共産主義的な態度の一端だったろう。それと同時に、若者たちの未来へ贈る、世代を渡った伝統遺産の新たな継承でもあったはずだ。「ポリーニ・プロジェクト」における同時代の音楽の伝達もその姿勢の表れだろう。そして、ポリーニが最後の最後までベートーヴェンに執心した最大の理由もまた、ベートーヴェンの作品こそ万人のための音楽にほかならないとつよく信じていたからに違いなかった。

 歳月が進むにつれて、コンサートで散見されるようになったポリーニの音響造型や厳密な統制の綻びは、かつて時代がこぞって称揚した一種の神話の崩壊ではなく、決して諦めない男の意志をかえって浮き彫りにするものだった。実際、私が頻繁にコンサートで接することができるようになった1980年代半ば以降は、ポリーニの精確さがよい感じにほどけてきた、言わば雪解けのような時節でもあったのだろう。
 だが、徹底して鋭敏な造型家たるポリーニは、従来の堅固な手綱を離すことをせず、円熟や老成へと舵を切ることもなかった。それゆえ、追い求める理想と実演における現実の乖離は、しだいに痛々しいほどに拡がりもした。だが、ポリーニは決して長年の理想を手元に引き降ろすことをしなかった。つまりは、一本道を逸れることなく、年輪を経てもなお青年のように同様の美学と高い水準を求め、自らにつよく課していたようにみえる。身体面でも精神面でも演奏は脆くなってきたとしても、構築への意志は強靭で、愚直なまでに決然としているようにみえた。
 たとえ演奏が綻びをみせるような場合でも、その姿勢を聴衆の目前に晒し続けたのである。仮にコンサートや拍手というものの熱病に冒された部分があったにしても、それは人々と共にあるポリーニの闘いの不断の活動であり精神の表現であるはずだった。そのひとは決して孤高でもなければ、完璧主義でもなく、そのときどきの精いっぱいを真正直に示し続けただけのことだろう。
 私は音楽のほかにご本人のことをなにも知らないし、ノーノやアバドとも共有したイタリアの左翼思想についても詳しくない。ただ、もしそのような信念が、変わる時代のなかで頑なに保たれていたとするならば、ポリーニは誠心誠意それを愚直に示し続ける以外に、その理想主義を貫く方途をもたなかったのではないか。
 テクノロジーの進歩は、録音と編集の技術を格段に精細かつ容易に活用できるところまできたが、それでも彼はスタジオに専ら籠るのでなく、コンサートで人々のもとに在ることを離れなかった。単純にピアノを弾くこと、人々に聴かせることが好きだっただけかもしれないが、晩年のポリーニの必死な姿をみるにつけ、それはどうしてもたんなる覚悟を超えて、使命や宿痾のような性質を帯びているように、私には響いてくるのだった。

 マウリツィオ・ポリーニはあくまでもマウリツィオ・ポリーニであり、それ以上にも以下にもなりようがなかった。彼にとって理性とは、構築的な意志にほかならず、どこまでも肯定的な力を放つものであったはずなのだ。“完璧主義”と称賛され、あるいはまた揶揄もされたポリーニの本懐はそのこと自体にはなく、ただ徹底して理想に達するべく努力する不断の希求にこそあった。
 そのようにして、ポリーニは徹頭徹尾ポリーニであろうとした。第一線のピアニストとして求められることに対し、自身の美学的な枠組みのなかで、ぎりぎりまで最善を尽くしたまでのことである。
 それだけのことだ。ただそれだけのことが、どれほどに例外的なことであるかを、ポリーニは身をもって示してきた。生身で挑むコンサートでは、傷ついた姿をもみせながら、満場の聴衆の喝采を変わらずに受け続けていた。諦めきれない男は決して諦めることなく、最後まで音楽に執着し、愚直なほどに理想を追い求めた、もてる力のかぎりを尽くして。
 そんなポリーニにとって晩年の境というものがあるとすれば、それは自身の理想との和解ではなく、堪えていた抑制の綻びから零れた歌の横溢と許容でしかなかった。ポリーニは本質的に歌う人だった。その歌のかたちが、彼自身と時代の美学によって、かつてはより鋭角に、高潔に研ぎ澄まされていたということだ。
 老いや一種の綻びとともに、歌の発露が滲むように色濃くなってきたのもその証左だろう。打ち震える感情の歌が率直に、いよいよ生々しく響いてくるようになった。ピアノを弾くときに、実際に歌う声を漏らしてもいた。たんに生理現象として、硬質なポリーニが軟化したということだけではすまない、なにか本質的なことが、ここには含まれている。いわば、歌こそが祈りであり、祈りはそのまま歌であり、それがピアノというモダンな楽器を通じて、より精細に緻密に叶えられることをポリーニは希求し続けていったのだ。

 ポリーニが亡くなったと伝え聞いて、私がまず聴いたレコーディングはもちろん1970年代に録音されたノーノばかりではなかった。ぐっと最近のところでは、先に少し触れたベートーヴェンの後期ソナタ、イ長調op.101と変ロ長調op.106の再録がひときわ胸をつよく打った――などといまは冷静に綴ってみせもするが、変ロ長調ソナタ「ハンマークラヴィーア」を聴き進むうちに、いつしか涙が止まらなくなっていたのだ。
 ポリーニに対して、こうした情緒的で感傷的な態度をとることは、かつてならば私も自らに禁じたところだろう。その種の主情的な姿勢は、ポリーニの信に沿うことから逸脱すると思い、自分を戒めたに違いないのだ。しかし、長い長い探求の、変わらぬ希求のその果てに遺されたはずのこの演奏を聴くとき、そうした自制をポリーニ自身が自然と解いていることは、ひとつの赦しのように聴き手を救いもする。
 これがひとつの恩寵でなくて、なんであろう。数年前の同曲の実演ではひどく寂しい思いも抱いた私は、長い長い苦悩の後の、しかしある意味では楽天的とも言える一途な希求の果てに、初めからそこにあったように高らかに響く、晴朗な波を聴きとっていた。ポリーニが最期の時節に遺した「ハンマークラヴィーア」を、私はそのように確かに親しく聴いたのだ。

 抑えていた感情が溢れ出した。待ち望んだ歌のように――。

マウリツィオ・ポリーニ ©Mathias Bothor and DG

【Profile】
青澤隆明 あおさわ・たかあきら

音楽評論家。1970年東京生まれ、鎌倉に育つ。東京外国語大学英米語学科卒。主な著書に『現代のピアニスト30—アリアと変奏』(ちくま新書)、ヴァレリー・アファナシエフとの『ピアニストは語る』(講談社現代新書)、『ピアニストを生きる—清水和音の思想』(音楽之友社)。