名匠の演出と個性豊かな音楽家の熱演が生み出す笑いに包まれる
演出家・松本重孝は「笑いの匠」。30年前、チマローザの《秘密の結婚》の稽古場で、ガタイの良いメゾが金持ちオバサンの役に決まった時、匠は一言「ナイトガウン。出来る限り豪華なの」と舞台監督に囁いた。そして本番。真夜中の駆け落ちの大騒動の一場で、オバサン役の彼女は、ハリウッド映画も真っ青の巨大なガウンを纏って現れ、場内をどよめかせた。無駄に長い裾を引きずる姿のその可笑しさといったら! 「歌い手の個性をまずは活かそう」——みな、そのことに気づいたのである。
それゆえ、この度、その松本がびわ湖ホール芸術監督の阪哲朗と組んで、モーツァルトの《フィガロの結婚》を手掛けることを、筆者は心から嬉しく思う次第。同じ結婚騒ぎを描いた喜劇オペラでも、チマローザの作はソリスト6人で合唱なしだが、その6年前に同じウィーンで初演された《フィガロの結婚》は、主要な登場人物だけでも11名、混声合唱も加わる大規模なもの。従僕フィガロは、愛する小間使いスザンナと普通に結婚できるはずが、仕える伯爵が夫人ほったらかしでスザンナに懸想するので、彼は堂々と闘い、横暴な殿様をやり込める。つまりは、市民フィガロの男気が、客席を「音楽の笑いの渦」に巻き込むさまが、このオペラの真骨頂なのである。
今回の《フィガロの結婚》は、ホールの名物シリーズ「オペラへの招待」の演目として、800席の中ホールで上演とのこと。このサイズが良い。なぜなら、登場人物がアリアを朗々と歌うだけでなく、レチタティーヴォ(朗唱)で丁々発止と渡り合う一作なので、言葉が届けば届くほど、場面の迫力が増すからだ。
しかも今回は、阪が指揮の傍ら、朗唱を伴奏するフォルテピアノも担当。それはつまり、歌から朗唱へ、朗唱から歌へとしなやかに進めつつ、火花の散るやり取りを実現させたいからだろうし、びわ湖ホール声楽アンサンブルのメンバーと共に、十分な練習時間が見込めるからでもあるのだろう。客演の人気スターたち——ソプラノの森谷真理とバスバリトンの平野和——も、緊密なアンサンブルにすんなり溶け込める名歌手なのだ。
ちなみに、公演は全6回、ダブルキャストとのこと。フィガロは、深い響きで飄々と歌いこなす平野と引き締まった声音の内山建人が競演。夫の浮気に悩む伯爵夫人は、きりっとした声音の森谷と柔らかさが持ち味の船越亜弥。他の出演者も、市川敏雅&平欣史(伯爵)や山岸裕梨&熊谷綾乃(スザンナ)といった若手の有望株から、知る人ぞ知る実力派まで広く選ばれている。名高い序曲(日本センチュリー交響楽団の熱演に期待)や小姓ケルビーノの名曲〈恋とはどんなものかしら〉といった人気のメロディにも期待大だが、フィガロが生き別れの両親を同時に発見するという〈幸せの六重唱〉や、庭師がうっぷん晴らしであれこれ言い募る一節など、人間のさまざまな面が、演出家が蒔いた「笑いの種」から芽吹くに違いない。その瞬間をどうぞお楽しみに。
文:岸 純信(オペラ研究家)
(ぶらあぼ2023年9月号より)
2023.10/7(土)、10/8(日)、10/9(月・祝)、10/14(土)、10/15(日)、10/16(月)
各日14:00 びわ湖ホール 中ホール
問:びわ湖ホールチケットセンター077-523-7136
https://www.biwako-hall.or.jp/