北九州市立響ホール 30年の歩み

文:山田治生

 1963年、門司市、小倉市、若松市、八幡市、戸畑市の合併により北九州市が誕生した。そして、93年、市制30周年を記念して、北九州市立響ホールがオープンした。また、市制25周年を記念して88年から、北九州市出身のヴァイオリニスト新井淑子が音楽監督を務める北九州国際音楽祭が開催されていた。この音楽祭は、新井が創設したフィンランドのクフモ室内楽音楽祭の姉妹版としてスタートしたが、その中心となる室内楽に適したホールの建設が望まれていたのであった。

 響ホールがオープンした1993年は、日本全国に中規模の音楽専用ホールが少しずつ建設され始めていた頃だった。87年、東京にカザルスホール(511席)、90年に大阪にいずみホール(現・住友生命いずみホール)(821席)と水戸芸術館(約620席可変)がオープンし、94年に名古屋にしらかわホール(現・三井住友海上しらかわホール)(693席)、95年には東京に紀尾井ホール(800席)が開館することになっていた。720席の響ホールは、建築設計・監理を石井和紘建築研究所が、音響設計は、東京大学生産技術研究所橘研究室がその基本設計・全体監修を行い、永田音響設計により実施設計・監理・測定された。残響1.8秒に設定され、日本を代表する中規模音楽ホールの代表の一つとなった。

 響ホールの音楽監督には、大牟田市出身で国際的に活躍するヴァイオリニストの数住岸子が就任した。当時、公立の音楽ホールに音楽監督が置かれるのは異例のことであった。

数住岸子

 1993年7月30日に響ホールは開館し、7月31日から8月4日までオープニングフェスティヴァルが開催された。モーリス・ブルグ、ウラディーミル・トンハー、ミシェル・アリニヨン、野島稔、久保陽子ら、国内外の名演奏家が招かれ、クラシック作品を演奏するだけでなく、野村武司の狂言、横山勝也の尺八、高橋悠治のコンピュータ音楽など、数住岸子らしい、幅広いプログラミングが行われた(数住自身はヴァイオリンやヴィオラの演奏でアンサンブルに参加)。

1993年 オープニングコンサート

 この響ホールフェスティヴァルは、その後もホールの自主事業として毎年開催され、数住の企画・監督のもと、バロックから現代の新作まで、クラシック音楽から邦楽まで、幅広い音楽が紹介される非常にユニークな音楽祭となった。

 しかし、1997年6月に数住が肺がんのために急逝し、98年以降はホールとしての音楽監督は置かれることなく、響ホールフェスティヴァルは大きく内容が変更されていくことになる(開催も毎年というわけではなくなっていく)。

2006北九州国際音楽祭 よりラン・ラン
2001北九州国際音楽祭 より
ヴィクトリア・ムローヴァ ダニエル・ハーディング&ドイツ・カンマーフィル
2001北九州国際音楽祭 より
ダニエル・ハーディング&ドイツ・カンマーフィル

 開館後、ホールの音響の良さは、全国に知れ渡るようになり、海外からも一流の音楽家が響ホールで演奏した。ラン・ラン、ダン・タイソン、河村尚子、ユリアンナ・アヴデーエワ、ピョートル・アンデルシェフスキ、五嶋みどり、ギル・シャハム、ヴィクトリア・ムローヴァ、庄司紗矢香、ライナー・キュッヒル、諏訪内晶子、ヤーノシュ・シュタルケル、ゲイリー・カー、エマニュエル・パユ、ラデク・バボラーク、イヴァン・ボストリッジなどである。北九州市出身で国際的に活躍する南紫音も、しばしば、響ホールに帰ってきている。

 中規模のホールゆえ、大きめの室内楽や室内オーケストラには理想的な空間といえる。アンサンブル・ウィーン=ベルリン、レ・ヴァン・フランセ、ダニエル・ハーディング&ドイツ・カンマーフィルなどの世界的なアンサンブルや室内オーケストラも名演を繰り広げた。

篠崎史紀

 2007年の北九州国際音楽祭20周年のガラ・コンサートで、北九州市出身の篠崎史紀を中心とするオーケストラが編成され、それが現在の「マイスター・アールト×ライジングスターオーケストラ(Maroオケ)」へと発展していく。指揮者なしでコンサートマスターの篠崎によってリードされる、約40名編成のこのオーケストラは、国内オーケストラの首席奏者やソリストと未来を担う若手とがうまくミックスされ、今や北九州国際音楽祭の名物的な存在となっている。昨年は、プロコフィエフの交響曲第1番「古典」、モーツァルトの交響曲第38番「プラハ」、ベートーヴェンの交響曲第7番を演奏。Maroオケ出身の奏者が今やプロ・オーケストラの中核を担い(ミュンヘン・フィル・コンサートマスターの青木尚佳、東京交響楽団コンサートマスターの小林壱成、神奈川フィル・コンサートマスターの大江馨、東京都交響楽団首席チェロ奏者の伊東裕、など)、北九州国際音楽祭に帰ってくるという例も少なくない。

 2020年以降のコロナ禍では、多くの演奏会が中止となり、音楽祭や自主公演がキャンセルされた。しかし、新しい世代の日本人アーティストの活躍や再開された海外からの音楽家の招聘によって、再び、音楽界は活気を取り戻しつつある。コロナ禍を越えての30周年。響ホールの世界への発信と地元との結びつきに注目していきたい。