Aからの眺望 #6
静寂と饒舌
——ジャン・ロンドーが弾く『ゴルトベルク変奏曲』に寄せて

文:青澤隆明

 ジャン・ロンドーの弾く『ゴルトベルク変奏曲』は静寂に傾斜する。そのためのレッスンだ、と言ってもいいくらいである。だからこそ、最大限に優雅に生きなければいけない、というのが、音のある部分での音楽家の静寂の感じとりかたなのだろう。

 これまで、ジャン・ロンドーの弾くチェンバロに、目覚ましい興奮を覚えたり、はっと息を呑んだりしてきた私は、どちらかと言えば彼の演奏の尽きることのない豊かな饒舌さのほうに目を眩ませてきた。耳を眩ませる、と言ってもいいが、文字どおり、音の響きの織りなしや絡み合いが面白い模様のように広がるのを追って眺めていくスリルが、ジャン・ロンドーを聴く大きな喜びだと感じていたのだ。リサイタルで生演奏に触れるにおよんでも、彼に対する私の興味にはどこか「ロック兄ちゃん」に寄せる親近感と近いところがあって、そう思うとなんだか、それはそれで一件落着、というふうに感じたところも正直ある。

 きっと私の注意も足りなかったのだろうが、こうしていまバッハの『ゴルトベルク変奏曲』がジャン・ロンドーの手とともに十二分に発酵しているのを聴くと、それはたんなる刺激や沸騰でもなく、そのための確信や根拠としての研究や理解に留まるものでも毛頭なく、愉快なおしゃべりでも新鮮な話題でもなく、感じる心の率直さに向かって、まっすぐに感性の枝を延ばすプロセスなのだと納得される。もちろん、弾く曲が違えば自ずと趣は違うはずだけれど、たんに奏者の成熟という言葉では片づけられない意志がここにはあるはずだ。

 饒舌が静寂の反照であり、むしろそこに近づくための所作であるのは、なにも振幅の間で均衡を保つためのエネルギーということだけではない。おそらく寡黙さそのものは静寂ではなく、むしろ饒舌のうちに静寂は宿される。ジャン・ロンドーはその事態をまざまざと生きている。大音響のなかに身を置くのもまた、静寂を求める極端な方法のひとつだ。私が十代からロックを好んで聴いてきた理由のひとつは、怒りや暴動のなかに鎮静と平安を、激しい感情の振幅のなかに定点を、大音響のなかに密やかな静寂を求めていたからだったのだろう。つまりすべてはレッスンである、なんのために、ではなく、ただ生きていくうえでの。

 彼の演奏は、ここではとても静かだ。これほど静穏な心で、ジャン・ロンドーの音楽の行方をみつめることになるとは思わなかった。雄弁であることは、それを阻まない。なぜならば、向かうところはひとつひとつの曲の終わり、そしてアリアの後の静寂だからだ。さまざまな変奏曲に臨む彼は決して道を急がない。響きそれぞれの生命のための時間を十全に担保しているとみえる。そう、チェンバロがところどころオルガンのように鳴り響く。残響が広大な空間に響き渡るように。それを思いきって、宇宙、というふうに呼びならわしてもよいのだろう。なぜかしら種々の曲の音楽は減衰して消失するのではなく、はっきりと影像となってそれぞれに残っている気がする。花火が消え去った後に残るのが、もやもやとした煙の残滓だけではないのとおなじように。

 ジャン・ロンドーが反復のたびに新しく開花させるような生鮮な装飾音は、流れていく旋律的時間に割り込んで注釈をつけるのでも、その流れを細分化して緩急を溜めるだけでもなく、愛おしむべき時間を引き延ばすように差し挿まれるようにも思えてくる。なにかをつけ加えてはいるのだが、それは文様のように時の流れを曲線化することで、蛇行する線を絡ませ、結果的には情感を宿す線を長く引き延ばしている。敏捷に派生を絡ませつつ、先を急ぐのではない。停滞するようにひとつひとつのフレーズを吟味し、静寂にかえすまえにその勢いを空間に紐解いていくようにも感じられる。そのためのレトリックならば、豊麗に駆使してみせる、というのが奏者の達意であり優美な主張でもあるのだろう。

 このことは、とくにゆったりしたテンポをとる局面にかぎらない。ジャン・ロンドーがひとつひとつの変奏を弾き終えるたびに、間をたっぷりと静けさに浸し、その後先の静寂を存分に聴きとってから次の曲をはじめていく、こうした一幕一幕を重ねる歩みは、各変奏曲の残響の吟味がそのたびごとに課されることにも繋がっている。もっとも、全体の終盤をなす第26変奏から第29変奏までの連なりのように、畳みかけるべきところでは躊躇なくそうしているが、しかしそれはたんなる快速のための前傾ではない。続くクオドリベットがゆったりと起ち上がるのをみれば、大曲全体の堂々たる円環は厳かなものなのである。

 ちなみに、一気呵成というのではないこの丹念な感じは、たとえば小林道夫が演奏会の際に、一曲一曲の間で譜面を据え、曲ごとに座り直すように、じっくりとひとつひとつ弾き進めていったことを思い出させもする。それは弾き手の調子や心理はもちろんとして、聴き手をそのように調弦していくことにも直結している。

 ジャン・ロンドーのアルバムが、序曲(第16変奏)を折り返しとして2枚のCDに収められていることも、しっかりと休憩をはさむ小林道夫のリサイタルの様子と重なる。レコードをひっくり返すときの、あの満ち足りて、先への期待に充ちた感覚が、そうして少しよみがえってくるところもある。華麗に奏でられる荘厳な序曲を、気持ちを新たに聴くときの目覚ましさは格別だ。

 このアルバムの51分52秒、55分20秒というそれぞれのディスク、全体で108分ほどの演奏時間を、どう受け止めたらいいのだろう。短いとは思わないが、まったく長いとも思わない。悠長だとも感じない。『ゴルトベルク変奏曲』の演奏の多くがもつ、加速を駆使して煽り立てるような感触とはまったく違って、ここでのジャン・ロンドーの歩みはしっかりと時を味わうように、決然としかし優美に踏みしめられたものだ。このレーディングがパリのノートルダム・ド・ボン・スクール教会で行われていて、その響きの伸びが全体の演奏を自ずと悠然とさせたということもあるかもしれない。2021年4月17日から24日という地上の日付が、この世界に意味したことを私たちはそれと知らずに感得しているだろう。

 静けさはそこにあるのに、それを明かすには、なにがしかの動きがいる。言葉なり、音なり、声なり、表情なり仕草なり。気づきは響きの、つまりは空気の微細な揺れの、わずかな差異の気配から生じる。少なくともそれをきっかけに起こる。そのために費やされた莫大な言葉や音声を、音楽家の心身はここで一瞬一瞬確かに引き受けようとしている。

 ジャン・ロンドーが弾くチェンバロの、典雅に澄んだ響きは、銀河のさざめきのようにも思えてくる。たったひとりの両の手が織りなす、ただひと連なりの音楽の流れに、遥かな往古から響き交わされた無数の声の音聲が聞こえる。あたかも、この曲が通っていく私たちひとりひとりが、アリアと種々の変奏にとっての、ひとつひとつのヴァリエーションである、とでもいうようにして。

【information】
『J.S.バッハ:ゴルトベルク変奏曲 BWV988』

ジャン・ロンドー(チェンバロ)
ERATO/ワーナーミュージック・ジャパン
9029.650811(2CD) ¥オープン価格

【Profile】
青澤隆明 あおさわ・たかあきら

音楽評論家。1970年東京生まれ、鎌倉に育つ。東京外国語大学英米語学科卒。主な著書に『現代のピアニスト30—アリアと変奏』(ちくま新書)、ヴァレリー・アファナシエフとの『ピアニストは語る』(講談社現代新書)、『ピアニストを生きる—清水和音の思想』(音楽之友社)。